斎藤幸平は、
「人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる略奪の対象とみなす」、という。
直接的には資本主義は、①人間を道具として扱う、②自然を略奪の対象とするということを言いたいのであろう。 資本主義VS人間と自然というシェーマが描かれている。
しかし、資本主義は、その実体(担い手)は賃労働と資本である。そう言う意味では、資本主義(道具化した人間)VS自然ということか?
しかし、斎藤のいう、資本主義とはなんなのか? さっぱりわからない。ただ、かの文章は、プロレタリアの疎外された実存とは無縁である、という実感を私はもつ。
いろいろと考えてみたが、
資本(主体)は価値増殖のために(目的)人間という道具(手段)を使って自然(対象)を略奪する、と斎藤は考えているということであろう。
資本の自己運動を目的と手段という論理で考えるのは彼の勝手であるが、そうすることで、斎藤は、資本主義について何も解っていない、ということなのだと私は納得した。
斎藤においては、理論追及の観点において、いわゆる「資本発生の弁証法」についての考察がないのである。
「血と火との文字をもって人類の歴史に書き込まれた」略奪の歴史を、すなわち根源的蓄積を単なる「自然との亀裂」としか考えられない斎藤のなせる理論化だ。だが、プロレタリア的党派的な観点からは、この根源的蓄積を、牧歌的回顧をこととするブルジョア階級のごとく「和気あいあいとした側面」という「意義」を見出しているのが斎藤なのだ、ということである。
マルクスはいう。
「資本は、賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。それらは相互に制約しあう。それらは相互に生み出しあう」。したがって、「資本と賃労働は一個同一の関係の両側面だ」、と。
このことは、いわゆる賃労働と資本の矛盾的自己同一という資本主義の根本矛盾のことをマルクスはいっているのである。
また、資本家は自分の都合で「労働者を解雇する」ことができる。しかし、「労働者は自分の生存を断念することなしには、」「資本家階級を見捨てることはできない」。賃労働者は「資本家階級に属する」「その際、・・・この資本家階級において一人の買い手を見出すこと、は彼の仕事である」、とマルクスは続けていう。
現実問題としてプロレタリアは、生死に関わることを、常に突きつけられているのである。
資本主義は、この「賃労働と資本の矛盾的自己同一」による自己運動によって成立しているのである。そしてこの資本の中に「自然」も含まれているのである。
最後に、斎藤の理論、思想は資本主義の肯定でしかない。私はそう思う。
(2021.02.11)