斎藤幸平は、資本主義を肯定しているのか? (2)

  斎藤幸平は『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』において、『資本論』第一部第三篇、第八章「労働日」から引用している。    

「自分を取り巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本は、その実際の運動において、人類の将来の退廃や結局は食い止めることができない人口減少という予想によっては少しも左右されないのであって、それは地球が太陽に落下するかもしれないということによって少しも左右されないのと同じ事である。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは誰でも知っているのであるが、しかし、誰もが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受け止めて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。   

 大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。(MEGA Ⅱ/6:273)」(『大洪水の前にーマルクスと惑星の物質代謝』P22)

 

 マルクスは続けて書いている。(これは斎藤が引用しなかった部分である)   

 「だから資本は、労働者の健康と寿命にたいしては、それを顧慮することを社会によって強制されるのでなければ、なんら顧慮しない。肉体的および精神的な萎縮・若死・過度労働の責苦・にかんする不平については、資本家は答えていう、――そうした苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をますというのに、なんでわれわれを苦しめようか? と。だが、概していえば、このこともまた個々の資本家の意志の善意には依存しない。」  (河出書房新社資本論』長谷部訳P221)

 

 斎藤はこの部分を欠落させておきながら、   

 「引用中にでてくる「人口減少」を「気温上昇」や「海面上昇」に置き換えたとしてもなんら違和感がない」、という。  

 

 私は、ものすごい違和感を持つ。  

 斎藤は、   

 「肉体的および精神的な萎縮・若死・過度労働の責苦」しているプロレタリアと「そうした苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をますというのに、なんでわれわれを苦しめようか?」という資本家種族との反省関係がないのだ。ただただ、資本家種族は、ひどい、と言っているだけなのだ。斎藤は、資本主義は人間だけでなく、自然も破壊しているということを言いたいがために、上記の私が引用した文章を省いたのであろう。       

 資本家は、プロレタリアの責め苦をみて、贅沢三昧を自覚し、満足する。他方、プロレタリアは、資本家の贅沢な享楽をみて、己のみすぼらしさに気づき、己の何たるかを自覚するのである。