梯明秀の「実践的直観の立場」
4 『資本論』における端緒的商品と始元的商品
イ 単純商品について
スターリニストの多くが冒頭商品を「単純商品」であると解釈している。例えば、長谷部文雄らのように単純素朴に、冒頭商品は単純商品である、という。それを、マルクスの『剰余価値学説』第三巻の叙述「われわれは、まず資本制生産の基礎であり前提である商品――生産物の特殊なるこの社会形態――から出発する」という記述に依拠して。
梯的に表現すると、単なる「悟性主義的いじくりまわし」以外の何物でもない。長谷部は自らが依拠するマルクスの上記記述のその背後にあるマルクス弁証法を切断しているといわざるをえない。
梯もまた、商品は資本制商品であると述べてはいる。しかし、単純商品について微妙な叙述もあるのである。
「上向と下向、前進と後退の矛盾的同一性としての円環運動をば、マルクスは自覚していたかぎりで、資本論の叙述が全体として上向的前進でありえたのであるが、そのゆえに、叙述の紙背にも下向的後退の論理を見抜くだけの思弁力を、読者には要請されている」とし、「『資本論』としての体系的叙述の上向の途は、「下向の旅」としての研究過程を前提していたのであり、この下向と上向との二つの途が円環として連絡するところに、『資本論』を書いたマルクスの概念的思惟の必然性があった。」「対象と意識との外的対立という学の基本的構造に関するかぎり……『資本論』の上向的叙述の成立するエレメントとしての、単純商品にまで分析的に下向する研究過程に(経験的感覚的意識から出発して『論理学』の成立するエレメントにまで到達する過程)照応する。」とさえいうのである。
このように梯は、「上向と下向、前進と後退の矛盾的同一性としての円環運動」において単純商品をとらえようとする。しかし、「下向の旅」をヘーゲルの「精神現象学」を適用しつつ、単純商品を[論理学という資本論]の始元的商品であるかのように論じるのである。
しかし、これは、「資本制経済の富の原基形態としての始元的商品(労働力商品をも含む資本制商品)への下向的分析の場所的・過程的な構造と、これがそれ自体下向性の体系をなす古典派経済学の批判的摂取といかに統一されているかの問題」として批判的に受け継いで明らかにするべきである、
マルクスは、あくまで資本主義経済の法則的解明を目指しているのであり、分析下向の終局は「富の原基形態」としての「資本制商品」である。決して単純商品生産にまで下向してはいないのである。しかし、「この始元的商品の論理的に抽象的な諸規定(いわゆる端初的商品としての論理的商品)が、まさにその抽象性のゆえに歴史上の単純商品にも妥当する」のだ、ということ。「さらに論理的なもの(端初的商品)と歴史的なもの(単純商品)とのいわゆる「照応」関係もまた認識論的に論じなければならない。
ロ 第一編第一章第一節、二節と第三節について
梯は、「資本論』冒頭の「商品」の第一節二節から「第三節に読みうつ」るには「弁証法的思惟を遙かにより鋭くして」ゆかねばならない、という。
以下に梯の主張をまとめる。
「相互に独立的な生産物、LとRとは、表現的一般者としての無規定な流動的人間労働力を媒介とすることによって、相互に商品として限定しあう。これが商品の発生の論理であり自己発展の論理である。マルクスが『価値形態の理解をさまたげる一切の困難の枢軸』とよんだものが、この商品相互間の反省論理である。すなわち『商品の対立的二規定、使用価値と交換価値とは、第三節では、前二節とことなり、分離するかわりに反省しあう』と第一版同一パラグラフで明言している」。
「第一節、二節に商品の二重形態、あるいは二者闘争的性格という言葉を先行的にみるが、要するに商品における二重性の矛盾統一ということは、商品相互の実在的反省論理を前提してはじめていえることでなければならない。」(同上)
「われわれ認識者も、第一、第二節の端緒的商品に対する外的反省の科学者としてのわれわれの立場から、かかる矛盾的同一ゆえの自己運動を観察する哲学者の立場に立つことが要請される。」
「商品の自己運動がマルクスによって使用価値と交換価値との矛盾にはじまるとされるかぎり、商品と商品の関係から資本論の叙述がはじまっていなければならず、・・・商品と商品との関係の論理が資本論によってしか理解しえない」(「ヘーゲル適用のマルクス的限界」)と読者に弁証法的思惟の必要性を力説する。
第一、第二節にあっては外的反省の立場において価値の実体を自然的思惟によって分析しているのであり、これにたいし第三節にあってはヘーゲルの規定的反省の唯物論化した立場において価値の実体を弁証法的に自己分析するのである。そしてこの後者が学問的な思惟方法なのである。」「第三節は方法論的に第一、第二節を前提するという論理的必然性があるのである」また、前者すなわち外的立場における自然的思惟とは悟性的認識である。
梯は、第一節、二節と第三節を明確に区別している。
「第一節、二節にあっては、外的反省の立場において価値の実体を自然的思惟によって(の)分析」であり、悟性的認識である。それは、「最初の途」であり、「商品の下向分析」である。
「第三節」は、「価値の実体を弁証法的に自己分析しており」「学問的な思惟方法で」あり「後方の旅」である。それは「始元的商品の学的上向展開」である。
「商品の対立的二規定、使用価値と交換価値とは、第三節では、前二節とは異なり、分離するかわりに反省しあう」という「商品の発生の論理であり、自己発展の論理」としての「商品相互の実在的反省論理」である。
そして、第一、第二節の使用価値と交換価値の「二者闘争的性格」は「商品相互の実在的反省論理」を前提しているのであり、第三節は、方法論的に第一、第二節を前提にしているのである、と捉えている。
(梯は、xL=yRについて詳しく考察しているが、ここでは触れない)
たしかに梯は『資本論』の始元的商品の叙述に関して重要なことを述べている。しかし、われわれは彼の主張する「科学」、「哲学」が従来のそれらであるということに注意する必要がある。それはさておき、第一節、二節は悟性的認識の「科学」であり第三節は弁証法的分析であり「哲学」であると峻別し、そのうえで第三節は第一、第二節を前提にしている、と単純かつ平板に捉えているのである。
残念ながら、われわれは、梯のように単純に非弁証法的にとらえるわけにはゆかない。認識=思惟活動にもとづく下向分析をつうじて明らかにされた〈始元的商品〉からの上向的叙述そのものの内部に直接的に「外的反省の立場」「商品の下向分析」を持ち込むわけにはいかない。「上向展開の内部における下向分析」として考えるべきである。第一節二節で論じている「商品」は、内的な本質矛盾を持ったものとして抽象されているのである。実際、交換関係のない「商品」などあり得ないのである。
黒田は第一節、二節と第三節を「体系的叙述方法そのものの円環構造」としてとらえている。長くなるが、黒田寛一著『宇野経済学方法論批判』から引用する。
「そもそも商品それ自体の論理的分析でさえもが、二つの商品がとりむすぶ価値関係を前提としたそれである。体系的叙述の観点からするならば、さしあたりまず、この商品の論理的分析(『資本論』第一巻第一篇第一章第一節)は、「価値形態あるいは交換価値」(第一章第三節)を措定する前提、つまり出発点をなしているが、しかし同時に前者(第一節)は後者(第三節)によって前提的に措定されているのである。価値関係をとりむすんでいない一個の商品などはあり得ない。始元的商品が「ブルジョア的富の原基形態」として措定されているゆえんである。まさにかかるものとして措定されているからこそ、「商品の二要因」の論理的分析が可能なのであり、その場合、「x商品A=y商品B」という価値関係が前提とされているのである。だからこそ、そこでは、価値形態の両極の物質的反省関係として外的に現象するところの商品そのものの内的な本質的矛盾が分析把握されうるのであり、(使用価値と価値との直接的統一をなす、あるいは価値と直接的に統一された使用価値としての商品の)この内的矛盾およびその実体がつかみとられること(第一節)によってはじめて、価値形態の物質的反省論理(第三節)も解明されうるのである。第一章の「商品」論だけとってみた場合でも、その第一節から第三節への叙述の進展の裏側には、同時に第三節から第一節へのまき返しの過程が秘められているのであり、かかるものとして存在論的な上向的叙述過程はラセン運動をなして展開されるのである。端初において抽象的に措定された前提的なものは、叙述の論理的進展を媒介として具体的なものとして措定され、そうすることによって端初の抽象性は媒介的に止揚されてゆくのである。たとえば抽象的人間労働は、商品交換関係や社会的生産過程において日々おこなわれている現実的抽象であることを前提的な物質的基礎として、商品価値の実体として措定される(そのかぎりでそれは「抽象的」ではある)のであり、そしてこれは価値形態の発展を媒介として、論理的には「具体的」に措定されてゆくと同時に、現実的交換関係の現象面においてはむしろかかる実体的根拠は「不明確」ならしめられるものとして上向的に展開されてゆく。こうした円環運動を通じて、「形態規定のうちに内容規定もまた確立されうる」わけである。(このような体系的叙述の円環構造は、第一章と第二章、第一篇と第二篇、第二篇と第三篇……などについてもいいうる。)
最後に
わたしは、梯明秀の「実践的直観の立場」について学んできたのであるが、彼の論文における「論理的なもの」と「歴史的なもの」との統一的把握および概念的把握における抽象のレベルについての彼の理解に対する疑問や問題性などについては省略した。
梯においては、あくまで『資本論』をどのように理解するのか、ということに関して「実践的直観の立場」が提起されている。しかし、梯は彼の『資本論』研究において、その研究の拠点である「実践的直観の立場」を貫徹しえなかったということ、また彼の「科学すること」「哲学すること」は従来の「科学」「哲学」である、ということ。マルクス主義における哲学=従来の哲学を止揚した「哲学ならぬ哲学」ではない、ということも併せて指摘してゆくことも大切である。
対象的にして非対称的な人間存在であるところの実践する人間による「変革の哲学」、これがマルクス主義における哲学なのである。そして黒田は、梯によって解明された「実践的直観の立場」を批判的に受け継ぎ《実践的立場》ないし《場所的立場》を確立したのである。
了
2026.08.08