黒田寛一の哲学をわがものに その3の2

Ⅱ『プロレタリア的人間の論理』について

 

 階級社会においては、生産的実践が歴史的に独自の形態に疎外される。このことは、マルクス主義者においては常識のことである。そして、生産的実践の歴史的に独自な疎外に関連し対応して、社会的実践もまた、政治的・階級的なものとなる。さらに、政治的・階級的となったこの社会的実践は、社会変革的実践に転換する、と存在論的にはいえる。

 資本制社会においては、プロタリアの階級闘争として、階級的に自覚したプロタリア階級による自己解放の闘いとして「転換」する。

 しかし、この「転換」は自然発生的におこるわけではない。革命的に自覚したプロレタリアが、「場所的限定を否定しようとする実践的意志の立場に自覚的にたたないかぎり」(黒田)、プロタリア階級の実践が変革的実践=階級闘争へ転ずることはできない。

 このことは、何を意味するか。

 プロタリアがいかにして歴史的自覚をかちとるのか、つまり共産主義者へと自らを自己変革してゆくのかという追求が目指されなければならない。プロタリアの解放が同時に全人類の解放となるという世界史的な自覚が、「報いられることを期待することなき献身」をもって、未だ見ぬ将来社会のために実践することへと己を駆り立てる。このような共産主義者によって、プロタリア階級による自己解放の闘いは自覚的、目的意識的なものとなる、ということであろう。

 

1『プロレタリア的人間の論理』について

 

 「プロレタリア的疎外を根底的に変革するための階級闘争を論理的に考察した」(P172附記)という『プロレタリア的人間の論理』。その前書きにおいて、『ヘーゲルマルクス』が1951年2月~5月に、『社会観の探究』が1950年10月~51年1月に、そして『プロレタリア的人間の論理』が1951年11月に執筆されたことが書かれている。これらは、黒田において「私自身の思想変革と形成にとって必然的なものであった」(『プロレタリア的人間の論理』まえがきP8)。「本書で展開されているプロレタリア的人間論(たとえ不十分なものだとしても)が、何よりもまず今日の私自身の背骨をなしている」。それに加えて、「現代のマルクス・レーニン主義を詐称するエセ前衛党を粉砕しつつ、真の革命的左翼を創造することなしには、自己解放をかちとることはできないことを直感しつつある戦闘的プロタリアが、共産主義的人間としての自覚をかちとり、断固として革命的実践を推進していこうとする主体性を確立する――本書は、そのための一助となるであろう」(『同書P10~11』)と述べている。

 われわれは、彼の背骨をなしている『プロレタリア的人間の論理』を我がものとしなければならないと思う。

 ここでは黒田が、革命的な自覚をなしとげ「革命的共産主義者」へと自己変革をなしとげた、その内容について考えてみる。

 

  • 黒田は、最初に「賃労働者の物質的自覚」には現実的根拠がある、という。

 そもそもにおいて、「資本の生産過程における資本関係は直接的にはその媒介的な前提条件としての労働市場の措定作用の結果であるけれども、生産過程の現実的展開を通じて原因としての根源的な階級関係が再生産され結果に止揚されることによって、資本関係のかかる直接的性格は否定されるとともに原因へ転化する。すなわち結果において措定=再生産された階級関係が原因として流通過程へ結果することにより、労働市場の外観は否定される」。このことのくりかえし、反復をつうじて「労働市場における直接的な社会関係、自由契約によって結ばれる商品交換関係は、実は外観・仮象にすぎない」、という現実をあらわにする。こうして、「労働力の商品化あるいは賃労働は、労働者が生活手段をうるために労働市場に偶然あらわれるのではなく、資本制的に疎外された労働が労働市場でとらざるをえない必然的な形態である」、という賃労働者の現実の姿が露わになるのである。

 これ自体は、「資本の自由なる自己運動」なのであり、「ブルジョアジーとプロタリアートとの階級対立として社会的に表現され、さらにこの対立は政治的国家と市民社会との、あるいは自己疎外におちいっている諸個人における政治的公民的生活と私的生活との分裂・矛盾として、表現されるのであって、これらは根源的な資本制生産関係そのものの矛盾の特殊的な諸形態にほかならない」だけでなく資本制社会の「墓ほり人」を創り出すのである。

 

 以上のような「物質的現実」こそが、プロレタリアの階級的自覚の契機となるのである。

 賃労働者は「働けど働けど我が暮らし楽にならず」、他方資本家は富を蓄積してゆく。しかも、賃労働者の生産物が資本の生産物として巨大な力となるまで拡大し、己に敵対的に対立する。にもかかわらず、いつも変わらず賃労働者は生産過程に入り、肉体的・精神的に消耗させて出てくるだけである。それだけではない。賃労働者は肉体的にも精神的にも破壊され不具化してゆき、露命をつなぐための自分の労働力を商品として販売することもできなくなってゆく。このことが、景気循環とも相まって賃労働者は新たに失業者へと編入されてゆく。賃労働者は常に「餓死線上」におかれている。このような自分のありのままの姿こそが、資本制社会において生きてゆくには、労働力を商品として販売しなければならないという労働市場における己自身を疎外された非人間的存在である、と直観するのだ。

 

 「労働市場の直接性における自由契約における平等な商品交換の虚偽性を認識し、労働力の売買は資本制的生産関係の結果に他ならないことを不可避的に反省せしめられるのである。」

 すなわち、「労働市場における自己疎外(=労働力の商品化)は生産過程における自己喪失(=疎外された労働)を物質的根拠とするその結果であることを、賃労働者は自己の人間性―資本制社会でつくられてきた人間性―を土台として直接的に自覚せしめられる」。

 

  • 賃労働者の歴史的自覚

 労働市場での賃労働者の自己疎外という事実――労働諸条件の、一切の生活手段と生産手段、さらに自らの生産物が資本家のもの、彼の私的所有物であること、それ故に自分の労働力を販売しなければならないという現実――それへの義憤を発条にして賃労働者は、日々繰り返されている剰余労働の搾取の直接的原因としての生産手段の蓄積の、かかる資本蓄積の背後にある根源的な原因へと反省を深めてゆく。生産手段からの労働者の分離を物質的基礎とした資本のもとへの包摂という「資本関係を創造する過程」こそが資本制蓄積過程の本質的で根源的な事態であるということを、賃労働者は自覚する。

 「無慈悲きわまる蛮行をもって、かつ、もっとも賤しむべき・最も不浄な・もっとも陋劣にして腹黒き・劇場のもとで遂行され」「血と火の文字(焼き印)をもって人類の歴史に書き込まれた」「資本の史的創成期」こそが「労働者を彼の労働条件から分離する過程」であったことを、資本制生産関係の成立の、資本蓄積の、根源的な事態であることを自覚する。

 まさに、このような「賃労働者における根源的蓄積過程への歴史的反省」=構成は、「プロレタリアートとしての階級的自覚」となる。「こうしてプロタリアは階級的全体性を自己の主体的支柱へ移し入れる」。「その主体性は階級性として」自覚する。「道徳的義憤は主体的反省を媒介として理性化される」のである。

 「プロレタリアートは彼自身の状態のうちに集中されているところの、今日の社会のあらゆる非人間的生活条件を止揚することなくしては、彼自身の生活を止揚することができない」(『神聖家族』)、「プロレタリアートは自分の鎖よりほかに失うべき何物をも持たない、彼らは獲得すべき全世界を持っている」(『共産党宣言』)、という歴史的地位と使命の階級的自覚である。

 

黒田はさらに、プロレタリアの歴史的反省=構成を深めてゆく。

 「プロレタリアにおけるその疎外された人間性の自己否定的な感性的な直観」は、生産様式の歴史的に独自な個別諸形態(封建制生産様式、奴隷制生産様式など)の歴史的反省へと展開してゆく。こうして彼は、「生産と所有とが根源的に統一された社会的生産の本質的形態まで下向してゆく。これはプロレタリアの自己疎外=非人間化を止揚するための「人間労働の本質構造への主体的反省である」。「『人間生活の永遠的な自然条件』を全社会的な規模で、しかも自覚的に実現している『種属生活』への物質的反省である。」

 歴史的反省=概念的構成について黒田は論じているが、そのことについて、ここでは捨象する。「プロレタリアートの社会観である史的唯物論」について、「社会的生産・人間労働・人間的本性をその資本制的形態へと疎外せしめている事態」への概念的把握については極めて重要なことであるが、論じない。さらに、人間労働の資本制的疎外形態としての賃労働の価値的側面からの考察も省略する。

 「根源的な社会的生産においては統一されていた生産と所有との本質的関係が機械的に分裂した・その疎外された諸形態」のひとつとして資本制生産様式をとらえ、かかる分裂そのものを根底から徹底的に変化せんとするプロレタリアの歴史的自覚へと黒田は、さらに深めたのである。

 

  • 賃労働者の革命的自覚=共産主義的人間の形成

 このことは、「プロレタリアートの自己解放が同時にまた全人類の解放として意義を持つこと、プロレタリアートブルジョアジーとの階級対立を止揚、階級一般の絶滅をいみする」ことをも自覚するのである。なぜなら、生産と所有の分裂は階級対立の発生であり、この階級対立の資本制生産の結果として歴史的にプロタリアが生み出されたのだから。

 「プロレタリアートの特殊利害の貫徹は同時に人間の普遍的利害の貫徹として意義をもち、プロレタリアートの完全な普遍的自己喪失の実践的変革は、人間性の完全なる奪回、普遍的=現実的人間性の回復となるのである。プロレタリアートの自己解放は人間の人間的解放である。社会主義の実現である」。かかる「解放の理論的表現」が共産主義である。

 まさに、プロレタリアートの「階級性を土台とした根底的自覚」であるからこそ、「拝金主義」へと自己疎外されているブルジョアジーをも変革しうる「革命的自覚」なのである。

 さらに黒田は、反省をつづける。この人類的解放は、「人間の社会的総欲望と社会的総労働との矛盾を、自然と「社会」=「共同体」との矛盾」を、解決する。物質の「自己運動する社会的生産過程」となる、と。

 

 プロレタリアの革命的自覚において定立されるのは、いまや、この「自由の王国」(『資本論』)でなければならない。それは、根源的な種属生活の奪回であり、人格的に自由な人間が「共同体」の自覚的構成員として、「人間生活の永遠的な自然条件」を実現する経済社会構成のイデーである。「プロレタリアを内から衝き動かすものである。その実現のための革命的実践へかりたてる原動力である。プロタリアートの革命的実践を規定する理性的目的である。」

「ここにおいてプロタリアートは、彼らの疎外された人間性を超越し、歴史の主体へ転化したのである。」

 

「革命的自覚の実現としての階級闘争と前衛党」については略

 

                              つづく

2023.08.24