黒田寛一の哲学をわがものに その3の3

Ⅲ 1951年に執筆し、1960年に『プロタリア的人間の論理』として発刊されたこの論文と、一体どれほど人たちが主体的に格闘したのであろうか。革命的自覚において定立する「自由の王国」、そのイデーについて、内から衝き動かすもの、原動力、理性的目的について、語った人を、わたしは知らない。それほどまでに「革マル派」「探究派」を語る自称「革命的共産主義者」の歴史的自覚内容は底が浅い。「革マル派」については、冒頭に述べたのでここではくりかえさない。

 

「探究派」の松代においては―

   私は、松代が主張する現代世界の変革主体・歴史創造主体の形成の論理なるものを、現代における労働者の革命的自覚を通り越して、実践主体の実践的能力の問題へと論点を移行させてしまっている、とすでに『訣別宣言』において批判している。

 彼は、「レーニンが言うように「自然発生的志向から労働運動をそらす」のが前衛党の任務なのか」(2023.05.12)と題する自身のブログで、次のように展開している。

「労働者に、まさにその「労働者と雇い主との関係」そのものについて考えることをうながすべきなのではないだろうか。

 労働者は、自分を経済的に苦しめ生活苦につきおとしている雇い主に怒って起ちあがったのである。労働者に、自分の雇い主とは何なのか、こいつに雇われている自分とは何なのか、と考えることをうながさなければならない。そして、自分の雇い主は資本を体現しているのであり、自分は賃労働者であって、こいつに自分の労働力を商品として売ったのであり、こいつにこき使われて搾取されているのだ、資本が賃労働を搾取するというこのような関係は、直接的生産者から生産手段を収奪した連中が資本家階級となり、生産手段を奪いとられた者たちが労働者階級になったということを根源するのであって、この関係をその根底から転覆するために自分たちは労働者階級として団結しなければならない、ということを労働者たちにつかみとらせなければならない。さらに、彼ら労働者たちに、「一般民主主義」というようなものを希求することを克服し、ツァー専制権力の打倒を、自分たち労働者たちの権力の樹立、すなわちプロレタリアート独裁権力の樹立として実現しなければならない、というように、前衛党とその諸成員は明らかにし、労働者たちの意識をたかめていかなければならない」、と。

   彼は、これを「労働者階級の階級的組織化論」と規定している。「探究派」の面々が賃労働者をオルグする内容を述べたものであろう。

 だが、このようにして組織化されたプロレタリアは果たして共産主義者足りうるのであろうか? 革命的に自覚したプロレタリアの「内から衝き動かすもの、原動力、理性的目的」については埒外であったとしても、かれに組織化された労働者の自覚内容、主体的支柱は、せいぜい反資本主義的自覚止まりである。「労働者階級として団結」する、といってもその主体的根拠についても論じてはいない。そしてこのことには、松代の自己形成、なかんずく革命的自覚のための主体的努力の欠如という問題があるのではないか。

 プロレタリアートは解放闘争を通じて「個人的諸利害を階級的諸利害として組織し動員し、もって階級的全体性として」己の主体性を確立する。さらに、「人間の普遍的解放を主体的原理とした」「社会的全体性と個人性との統一」しうる「共産主義的人間」へと自己を高めてゆかねばならない。それゆえに「報いられることを期待することなき献身」をもって解放闘争の先頭に立つことも可能になる、と黒田は教えてくれたのではないだろうか。我々は、不朽せる21世紀現代においてプロレタリア革命を実現するには、革命的に自覚したプロレタリアート、すなわち「共産主義的人間」以外には不可能であることを自覚すべきである。

 

Ⅳ 松代の黒田批判についての覚書

 

  「プロタリアの階級的自己組織化」については、Ⅲで完結している。この覚書は本文章とは関係ない。この文章を書いている最中に『ナショナリズムの超克』(プラズマ現代叢書5)が出版された。この書籍の中で松代の黒田批判が展開されているが、あまりに読むに堪えなかったので、この覚書を加えた。私は、いまだ黒田寛一の『実践と場所』ときちんと格闘していない。そのために黒田哲学をわがものとすべくもがいているところだ。『実践と場所』ついては、近い将来全実存をかけて対決し格闘するつもりでいる。

   したがって、ここでは思いつきではあるが、アットランダムに書き記しておこうと思う。

 

◆黒田は「縄文土器時代のひとびと」という限定付きの「アニミズム」「シャーマニズム」「祖霊信仰」について論じているのにもかかわらず、松代は、アニミズムシャーマニズム、祖霊信仰をどこの国でもないものとして描き出し、黒田に噛みついている。

 

◆「もののあわれ」について

   松代が言う「あらゆる労働者は、労働のまっただかでは「もののあわれ」という情感をもつことはない」、ということについては私も同感である。日々の労働において私が感ずるものは、「まだ、○○時か、あと何時間」ということ、ランナーズハイのような一種の無意識状態の中で子供頃の遊んでいた野原や、自然の情景が、春には蝶々を、夏には蝉を、秋にはトンボを追っかけまわしていた記憶が、ポッ、ポッと断片的に浮かんでくることだ。労働者は、それぞれの資本の労働過程に規定されて、さらに己の人間的土台に規定されて、様々なことを感覚するのだと思う。もっぱら、とてつもない疲労感から何も考えられず、「また明日会社に行くのか」、誰かが、ケガをしたと聞いて「明日は俺かな」、とか、会社のその労災事故にたいする資本への対応に怒ったりとかの繰り返しの毎日である。即自的にはそのようなものである。

  その労働から離れた時に感じた時がまさに重要であると思う。しかし、松代は疎外労働から「しばし離れることができたときに感じることがあるものとして分析しうるにすぎない」、という。これは客観主義を通りこしている。私は実に正直に言っていると思った。「ああ、この感情だ」と己の感情を自覚できた松代は、「共産主義者」になったら感情・情感が干からびてしまった、ということを自ら書いているのだ。現代日本資本制社会、この中で生きている現代のプロレタリアは「もののあわれ」を情感する情緒すら「破壊」されている。共産主義的人間はこの社会で真実のありうるべき人間として、この「情緒」をも自己変革して、より豊かなものへとゆかねばならないと、私は思う。

 「もののあわれ」は、単に自然に対して感ずるものではない、人間・社会についても言えることは鴨長明が教えるところのものでもある。また、「平家物語」にも「所業無常の理」とある。現代に生きる我々は、春、夏、秋、冬という季節の移り変わりや、お盆の時、などなどいろいろな時に感ずるものであろう。松代は、「日本人固有の情緒」というものが特殊的個別性として日本の革命運動に重要であることを自覚できないのであろうか。

 同じことであるが、夏祭りは神輿、山車など神事に打ち興ずる庶民という名の多くのプロレタリアが存在する。少し前には「やおよろずのかみ」であるトイレの神様を歌った歌手がいた。年末の紅白歌合戦にも彼女は出場した。新年には多くの庶民=プロレタリアが神社に初詣に出かけ、雑煮を食べ、七草がゆを食べる。これらのことは、日本人に特有なことがらでもある。疎外労働をしている時とは、異なる・この疎外労働から離れた時に行うときの、このような意識をも疎外された、プロレタリアを我々は組織化するのだ。       

 「労働力商品としての自己存在についての自覚をもっていない賃労働者」が同時に「日本人らしさ」を喪失している、この労働者をわれわれは組織化する、という困難さを自覚できないようだ。松代のこの黒田批判は随所に結果解釈的なものを感ずる。また、彼は日本人ではない、あるいは日本社会を超絶しているかのようだ。あるいは、お腹のなかの「日本人」ということを知覚できないのであろうか。

 

軍国少年

 黒田は「敗戦を自然現象のように受け取った」。「これで安心して生きて行ける」と子供心に受けとめたという反戦・平和をたたかう老女性(横湯園子)もいる。中沢啓治のような人もいる。『この世界の片隅に』の主人公のような人もいる。高知聰のような人間もいる。だが、みなが皆「軍国少年」であったわけではないのだ。

「気持ちと情感そのままによみがえったのではないだろうか」、という推論で黒田は、軍国少年であったに違いないと、断定してしまうのはいかがなものか。

 

 

 イデオロギー論主義という誤謬についてわれわれはどのように学んできたのか。丸山真男は、スターリニストは、イデオロギーをそれが生みだされた社会階級的基礎や社会経済構造に結びつけ、そのように物質的基礎に還元し解消していると批判してきた。

 それは、スターリニストが、エンゲルスが「イデオロギーはそれ自身の歴史をもたない」(『ドイツイデオロギー)と書いていることに依拠して、イデオロギーには相対的独自性があり、内在的に、不均等に発展すること、「それと同時に、自立化したイデオロギーは、その発生基盤にたいして反作用をおよぼす」、ということを完全に否定するというタダモノ主義に堕しているからだ。唯物史観の基本とこの唯物史観の公式主義的アテハメとを、われわれははっきりと区別すべきである。

 

 梅本克己の次の言葉を思い出すのもよいであろう。

 「没価値的機械的動因が価値的動因に優先するのは原初的な一時期においてであって、その限界の外では両者は相互に弁証法的交渉をたどる。この弁証系列からそれぞれに断片を抽象すれば、反映の機会化と主体の絶対化が行われるであろう。」(『過渡期の意識』)

 

 我々は、W→A⇒B➡C➡D、W⇒W′→B➡C➡Dの構造を適用しつつ読み込まなければならない。①W→A、②W⇒W′、③A⇒B➡C➡D、④W′→B➡C➡Dということに注意し、何をどのように論じているのか、とアプローチする必要がある。(黒田著『マルクス主義形成の論理』を参照)

 

 そしてDを資本制社会とおけば、資本制社会の中の日本型資本制社会を黒田は論じているということを、我々は自覚しなければならない。つまりD(J)と記号であらわすことができると思う。アメリカはD(A)、イギリスはD(E)等々と記号化できる。黒田は、これら個々の個別の国家の資本制社会の解明という、マルクス主義における未踏の領域を開拓している、という実践的意義を私は受けとめた。その場合でも論理的=歴史的、歴史的=論理的な叙述を心掛けねばならない。さらにわれわれは、「この叙述において注意さるべき点は、本質論的追求と疎外論的現実論とがかさなりあって展開されている」箇所(イデオロギー一般、科学、芸術など)がある、ということにも考えを広げなければならない、と思う。つまり、黒田の縦横無尽な認識=思惟活動(このような表現が当たっているかどうかはわからないが)にも、われわれは注意して読まなければならない、と思う。

 

 思うに、われわれは、世界革命の一環として日本革命を我々は目指している。だからこそ、日本人たるのメンタリティーと、日本的風土を史的唯物論的に明らかにすることが重要である。オルグ主体たる革命的共産主義者オルグ対象たる労働者も日本人だという常識的観点からだけでなく。革命後の支配階級となった日本プロタリアートは、プロレタリア独裁権力を樹立し、直ちに経済建設と同時に文化革命をも着手しなければならないのであり、これは、革命ロシア、ソ連邦におけるスターリン専制国家成立過程における、1921年以降の「非ボルシェブィキ哲学の清算の端緒をなした」反宗教宣伝、宗教迫害とその「非ボルシェブィキ哲学の清算」という誤りを繰り返してはならない、という問題にかかわることでもある。

◆人類の起源についてー最新の知見

 ホモ・サピエンスネアンデルタール人、デニソワ人という三種の人類は、数十万年にわたって共存し、互いに交雑することによって、遺伝子を交換してきたこともわかっている。 

 ホモ・サピエンスの出アフリカは六万年前だけでなく、四十万年前よりもやや新しい時代にもう一度あった、あるいはユーラシア大陸で他の人類から進化したと考えることもできる。 

 人類を形態的特徴で区分けした現生人類の集団

ネグロイドコーカソイドモンゴロイド、オーストラロイド   

 

今後、深めなければならないことがたくさんあることを自覚した。                   

 

2023.08.25