訣別宣言 その1       藤川一久

訣別宣言

 はじめに

 私たちは、2022年10月8日「探究派」に対し訣別宣言文を突きつけた。その後現在に至るまで、彼らからの自己批判も反批判もない。2023年の開けを期して訣別宣言文を加筆し、すべての労働者階級にこれを明らかにする。その趣旨は、「探究派」なる集団は、労働者階級の前衛党を名乗ることができるような代物ではないということである。労働者階級の自己解放に責任を持つと考えている私たちは、多くの労働者諸君が官僚主義の集団と化した彼らの実態と対決することを願ってやまない。

1 官僚主義を顕在化した集団

 わが同志谷風は、「革共同第四次分裂宣言」への批判を行った。以下、その内容を明らかにする。

【2022.09.23     

 谷風 「宣言」(案)について  疑問に思ったことなどについて、少しずつ書いていこうと思う。

①「新たな戦乱の時代を、プロレタリア革命の第二世紀へ!」(p.1)について

 ①全体のタイトルは、「…〈革命的前衛党の創造〉に邁進しよう!」とあるが、この章の最後の部分は「〈革命的労働党の建設〉に邁進することを…」となっている。  *注〈 〉内は著者の強調。以下同じ。 「前衛党」を「労働党」と変え、「創造」を「建設」になぜ変えたのかについてはわからないが、この最後の部分は、タイトルと同じ表現にした方がよいのではないか、と思う。

 ②この章では、本文の2行目に「ウクライナへの軍事侵攻」そして「侵攻したロシア軍」と表現され、6行目では「ロシアのウクライナ侵略」と表現されている。2月24日付けのアメーバブログでは、「軍事侵略」と表現されている。辞書によれば、「侵攻」は敵やその拠点を攻撃することのみを表し、「侵略」は攻撃したうえでその拠点や陣地を奪い取ることを意味する、とある。ここは、帝国主義的侵略のことを言っているところだと思うので、「侵攻」は「侵略」にした方が良いのではないだろうか、と思う。

 ③本文の4行目の「スターリン主義から転化した」は、「スターリン主義官僚専制国家から転化した」と表現すべきではないだろうか。

 ④帝国主義の分類を「旧来型」と「新型」としているが、旧来型はわかるが、新型とすると「転化」が抜けてしまうように思う。アメーバブログでは、「在来型」と「転化型」としている。

 ⑤13行目の「ウクライナ問題」という表現が、気になった。「ウクライナ問題」と表現してしまうと、どのような問題なのかがわからない。ここは、そのことがわかるような展開がほしいと思う。たとえば、〔プーチンロシア帝国主義国家によるウクライナへの軍事侵略に対して、欧米帝国主義国家からの経済的・軍事的援助を受けたゼレンスキー政権による「国家総動員体制」をつくり出しての反抗〕とかいうようにである。

 ⑥本文13行目に「輝かしい闘いを展開してきたかつての革マル派」とあるが、ここに〔〈反帝国主義反スターリン主義〉を掲げて果敢に闘ってきた〕と私たちの世界革命戦略の正統性を示すような表現にした方が良いのではないかと思う。なにが「輝かしい」のかを記したほうが良いと思う。  ※また、考えてみます。】

 このような同志谷風の「革共同第四次分裂宣言」への批判に対して、椿原は次のような回答をしてきた。

「呆れ返っている。よくもこんなことで頑張るものだ。一番わかりやすいかと思うので、一つだけ、返答する。私が「侵攻」という語と、「侵略」という語を使い分けていること、主語ないし実体で区別していることをどう思うか。後は推して知るべし。対象の主体的分析、ということについて考えてみてはどうか。(椿原)」

 あきれ返ったのは私である。 自らが書いた「宣言文」について、批判をきちんとうけとめ、その限界を吟味し、そのうえで反論すべきところを批判するという姿勢は、椿原には全くない。いや、椿原の理論=思想水準の本質が突かれたというべきか。そういう時に自然に本能的に出る、「あー言えばこういう式の切り返し」で回答してきた、そういう代物だからである。ヘリクツでしかない。 この「宣言文」を書いた椿原は、同志谷風によって次のような問題が突きつけられたのである。

 批判文①の冒頭の内容について

 数カ月前には、金に目がくらみ前衛党の労働者性を実体的に確保し、保証するということなど、これまで確認してきた原則を没却し放擲したのが椿原であったのではないか。「革命的共産主義者としての死」を意味するような組織問題を引き起こし、居直り続けているのは椿原その人ではないか。私たちは、前衛主義者でもなければ、反前衛主義者でもない。同志黒田は、レーニンの組織論の限界を止揚した新たな前衛党組織論を構築した。それを受け継ぎ、組織現実論を現代的に適用しているのが私たちである。椿原はそのような事柄を忘れたかのような言辞を弄し、実践しようとしたではないか。そのような者が、突然、前衛党、労働者党などと書き連ねたのである。まずは、そのような自らを省みてはどうか? 榊原は、労働者階級の前衛党とはいかなるものであるのか? 一から学びなおすことが問われていたのではないのか?

 ②について

 この宣言で、椿原は軍事侵略を「軍事侵攻」という表現で、冒頭から文章を展開している。これはプーチン侵略戦争を免罪しているかのような叙述ではないか。多くのブルジョアジャーナリズムが「軍事侵攻」としか言わないのは何故なのか? 私たちはどのように規定するのかにその革命性が滲み出るのだ。しかも天空からロシア軍とウクライナ軍が単に軍事行動を展開し、激突している、と眺め渡しているかのようだ。椿原は明らかに政治的感覚の鈍磨と画歴史的事態への肉迫の弱さを示しているではないか。現実世界に内在していないということだ。

 ③、④,⑤について

 同志谷風の主張のまさにその通り。説明をする必要はない。 この批判こそは、椿原が組織的地位に胡坐をかいて切磋琢磨することを怠ったということを鮮やかに示している。

 ⑥この指摘は極めて重要である。

 この間の「革マル派」への批判の重要な一つであるからである。「革マル派」において「反スタ」の内容が狂っているという極めて重要な問題をイデオロギー闘争として展開してきたではないか。 いや、いったい椿原は「綱領的文書」をどれだけ主体化してきたのか? そういうところまで己を省みたらどうか?  私は、榊原の反論のしかたに対しては、すでに何度も批判を文書にて提出している。しかし、彼は何を批判されているのかを全然うけとめないのである。「あー言えば、こういう」類の切り返しを常套手段としている。私たちの「思想闘争の論理と倫理」とは全く相いれない、単なるディベートの組織への持ち込んでいるということに対して何らの否定感もない。そして、根底にある自己肯定の哲学と自己絶対化が如実にでている。 これらを組織論的な観点からみると、椿原は官僚主義を顕在化した、といえる。そして松代は、そのことに何の危機感をも表明しないばかりか、擁護さえしている。 あきらかに「探究派」は、官僚主義の集団と化した。 このような「探究派」という集団は、内なるものと外なるものとの根底的な永久革命を志向する、わが反スターリニズム革命的共産主義者が目指す党とは無縁なものである。

 おまけ

  現在の「探究派」集団の本質を表すエピソードを一つ。 黒江は、自らが属する組合の方針案に「修正案」と称するものを提出した。ビビリズムを本性としている彼は、執行委員会では何も発言できなかった。委員長から「大会議案(案)への意見を受け付けますのでなにかあればおくってください」という発言をうけて、黒江は、〈朱入れ添削文〉を委員長に送り付けたのである。組織の内・外の区別もなく、社会人として非常識極まりない、この無知。この恥知らずの行為に対し、椿原は「ほかに方法はなかった」という。  

 労働運動とは、無縁な「官僚」と化した存在というほかないであろう。