訣別宣言 その4       藤川一久

4 イデオロギー的根拠

 椿原は、「ある問題の打開をめぐる思想闘争において、批判するものは‶何でもあり〟ではあってはならない。その思想闘争において新たな問題が生みだされた場合は、いったん論議を止め、……」との教訓を「思想闘争の壁」から導き出し理論化している。  

 なんということか!?

 「革命的共産主義者としての死」を意味するような組織=思想問題を引きおこした椿原。これを上っ面だけの「反省文」だけで乗り切り、居直り続けている椿原その人が、何をかいわんやである。今回の思想闘争において、「論議を止める」ほどの思想闘争における新たな問題など、どこにもありはしない。ただ一人椿原だけが、「詐欺だ」という判断に立ち得ていない、という己自身に、「目を覚ませ」という厳しい思想闘争を展開してきただけである。ところが、椿原は自己保身から、批判を拒絶し、「耳を塞ぎ壁をつくって」批判から逃げようとしたばかりか、自己肯定のための反撃を開始したということではないか。そのための根拠を同志黒田の「思想闘争の壁」からの「教訓」などで基礎付けることなど許されるものではない。 私たちは、椿原の詐欺の餌食となった問題の反省論議を通じて組織をさらに強化しようと問題を掘り下げてきた。その過程で己の失敗を隠蔽したり、居直ったりするだけでなく、批判している者に対して批判者の「問題」にすり替えるような組織成員として恥ずかしい榊原の思想性・組織性・人間性を問題にしているのだ。

a 自らの自己肯定の哲学からの解釈

 椿原は、「自己にあらざる他者において自己を見る」ことへの肉体的反発を何度か示していた。この唯物論的反省(自覚)の論理などは無縁なのだ。椿原において、他者における自己は、つまり他者に映じた椿原自身は、「誰かに影響された」「狂っている」「歪んでいる」ところの、他者に映じた椿原であり、さらには、「バイアス」がかかった、「捏造」され「でっち上げ」された椿原なのであって、真実の椿原は己の内にある椿原である、という固い確信の持ち主である、ということである。

 これでは、自己変革などできるわけがない。自己肯定そのものだ。

b 松代の哲学——その限界

 松代は、なぜにこのような椿原を擁護し、内部思想闘争の破壊に手を貸すのであろうか。それを突き止めるためには、彼の哲学がいかなるものであるのかを検討しなければならない。

 松代は、西田・梯・黒田における「場所」を批判的に受け継ぐ形で、自己変革を、実践主体の、《場所》に於いてある己の内面にうずく衝動から存在論的に基礎づけている。 松代は、西田への批判を媒介として、「場所的現在において・私たち人間主体が・おのれ自身を・歴史創造の主体へと変革する、この自己変革の論理を解明する」と主張する。

 「この歴史的な社会的現実を切り拓き突破するためには、私たちは、この現実を変革する主体たりうるものへと自己を変革しなければならない。」と現代における労働者の革命的自覚を通り越して、実践主体の実践的能力の問題へと論点を移行させてしまう。 「だから私たちは、おのれ自身の分析=思惟能力を・論理的=理論的な力を・体得し高めなければならないのであり、〈みずからの実践的=組織的な諸能力〉をきたえあげていかなければならない。私たちは自己の〈思想的・実践的・組織的・人間的の質〉を変革していくのでなければならない。」 「実践的=組織的な諸能力」とは「思想的・実践的・組織的・人間的の質」であり、実践の指針が的確か、強靭なのかは「実践的=組織的な諸能力に限界づけられる」のであり、だから私たちは自己変革が必要なのだと、「自己変革」を基礎づける。

「おのれのあらゆる諸能力をたかめ、実践=認識主体としてのおのれの資質、組織成員としてのおのれの資質をつくりかえていくために、自己を訓練し鍛錬していかねばならない」と。

「このような自己変革の闘いこそが、おのれがこの瞬間・この瞬間に・死んで生きる〈こととなる〉」と解釈を付け加えてもいる。

 これは、《場所》においてある実践主体の問題からの存在論的定式化である。

 実践的=組織的能力を思想的・実践的・組織的・人間的の質と等値し、実践的=組織的能力の限界は思想的・実践的・組織的・人間的の質の限界だから自己変革の闘いが必要だ、というのだ。 しかし、このような松代の定式化した「自己変革」論は、「日々不断にかつ永久に、自らを破砕し、そして蘇生させる」(小金井堤 桜子)という言葉に貫かれている同志黒田の思想・哲学と同じものなのだろうか? 何故に松代は、椿原の自己過信と彼の内面を支配している自己保身を見抜くことができず、「革マル派」への自己肯定をよりどころにした反抗についても肯定してしまうのだろうか。

 彼は、組織成員がこの資本制社会に実存していること。それゆえに様々なブルジョア的汚物にまとわりつかれている、という厳しい現実から出発していない。 未だ変革されざる、拝金主義、エリート主義、道徳主義、自尊心が強く過信の持ち主、妬みやライバル主義、等々を抱えている組織成員を出発点にしていないのである。それらの諸傾向を持つ組織成員は、自らの実践的=組織的な諸能力を鈍らせ、限界づける。組織づくりの障害となる。そして、それを克服するには、己を、己の内面を、見ることができなければできない。

 松代は、他者の「感情や気持ちや苦悩丸ごと」とらえ、考えようとしてきた。しかし、感情や、気持ちを惹起させる「己の内なる非合理的なもの」を見ることができない。そのことは、彼が「己自身の分析=思惟能力を・論理的=理論的な力を・体得し高めること」、「みずからの実践的=組織的な諸能力をきたえあげ」、「自己の思想的・実践的・組織的・人間的の質を変革していく」ということに満足し、そこに解消できない領域がある、ということの自覚が弱いということを示している。確かに松代は、感情や気持ちや苦悩を丸ごととらえることができなかった己を自覚しのりこえようとしてきた。しかし、「自己に欠損している感性的側面(感情・心情・情念・心といわれるもの)の中に、N(=任侠気質の持ち主)が住み込んでしまっている」(同志黒田)という、「己の内なる非合理的なもの」を深くえぐりだし、そのような己を自覚することができていないのだ。

 梅本に対する松代の評価は、そのことを雄弁に語っている。

「被限定を能限定に転ずる変革的実践の決意成立の場面」を明らかにすることを提起した梅本にたいし、 すでに「場所=物質的世界をうちやぶり切り拓く、と〈意志している私たち〉がどうするのか」という答えからアプローチしている。

 これでは、梅本の問題提起の何もわかっていないではないか。

「人間の論理学」ということについて、深く「哲学」(同志黒田)したことがないのであろう。

「行為的現在の場所においてあることの自覚こそが、われわれを実践へ、変革的実践へと駆りたてるのである。《いま・ここ》における「報いられることを期待することなき献身」的な実践が、行為的現在の場所の非連続を破って、この非連続を「次の今」に連続させることになる」(同志黒田)のではないだろうか。このように語る同志黒田は、「有限な人間的物質的存在が、その意識の底にひらく超次元的な無限の時空的世界」が存在し、「この形而上の世界の限りのない否定的運動がつくりだすところのもの」の存在を自覚している、ということが前提とされているのだ。

 革命の必然性を認識していた共産党員がなぜ「転向」したのか? 今日でいうならば、あまたの革マル派同盟員がダウンし逃亡したのは、なぜか?

 「場所=物質的世界をうちやぶり切り拓く、と意志している」ものたちが、その意志を捨てたのは何故なのであろうか?

 いや、労働者はいかにして革命的共産主義者へと自己変革してゆくのか? 組織成員となった労働者、革命的自覚をかちとった労働者が組織成員としてふさわしい思想性、組織性、人間性をたえず変革してゆくその場合でも、同志黒田の「内なるものと外なるものとの根底的な永久革命」を日々実践するのだ。私たちは、そのように同志黒田から教わり「内なるものと外なるものとの根底的な永久革命」の闘いを行ってきたではないか。

 最後に、黒田における「場所の論理」とはいったい如何なるものなのか?

 彼に語ってもらう。

 『読書のしかた』「終りの始めに」(同志黒田)より。

 「「疎外」とは私であり、私とは「疎外」なのである。あるいは、「疎外」はこの私のどん底なのだ。このどん底からはいあがることを私に決断せしめたところのもの、それは若きマルクスであった。疎外態としての私のこの自覚は、同時にどん底をつきぬけてプロレタリアの疎外された実存につきあたり、まじりあい、合一化された。これが私の出発点であった。それだけでなく、つねに私のあらゆる思索と実践がそこから生まれ、そこへ回帰してゆく原点でもあるのだ。……」

「……経済的どん底にせよ人間存在そのもののどん底にせよ、所詮、どん底と面面相対したことがかつて一度もない落ぶれた学生活動家もどきの哲学者なるものとか代々木中央の小河童とかが、……私を葬り去ったつもりになっているのは、まさに笑止千万というべきだ。……」

 「「人間はなんであり、なんであるべきか」という古くて新しいこの問いを問いつづけることのなかに、またそれをとおして、他からは侵害されることも破壊されることも決してないこの私の実存を確かなものとし、そして革命実践へ身を投じてきたし、また今後もそうであろう。いや、そうでなければならない。たえず「人間はなんであり、なんであるべきか」と問いつづけることは、どん底人間がなにに「なる」かということを自己にむかって問いかけることにほかならず、それへの発条を永久的におのれ自身の内部に創りあげ、かつ実現することにほかならない。一切の俗物的批評とは異なる次元において、私のこの拠点はつらぬきとおされていくであろう。——わが大井正よ、西田=田辺哲学を唯物論的に改作することを探究してきた梯明秀の哲学から私が学びとった「場所の論理」とは、まさにこのようなものなのだ。」

 松代の人間変革という考えかたは、このような同志黒田の「内なるものと外なるものとの根底的な永久革命」とは異質なものである、と言わざるを得ない。