訣別宣言 その3       藤川一久

3 半年にわたる組織問題をめぐる内部思想闘争で露呈した自己保身と居直り  

 私たちは半年近くにわたって、プロレタリアの自己解放を目指す前衛党とは思えない「組織」問題の解決のために論議を積み重ねてきた。そこで明らかになったのは、椿原の自己保身に満ちた居直りと批判者への攻撃であった。その一端を紹介する。 9月8日の組織会議において、5・11の組織会議で顕になった椿原へ同志谷風の認識・評価と思われることに「同じように感じた」と柿野は発言した。(既に書いてあるが、椿原は5・11の論議を「記憶なし」と平然と悪びれることもなく「反省」文に書き連ねたのであった。)椿原は間髪を入れず「あんたは(谷風に?)影響されているからだ」「あんたが狂っているからだ」と矢継ぎ早に柿野を罵倒した。柿野は「そんなことない」と反論すると、椿原は「帰ったら論議しよう」と恫喝した。こうして、柿野は自分の言いたいことを言えなくなる。 このように、椿原は自分の主張と相反するとみると、その発言を封殺し、論議そのものを混乱させ、重要な論議をつぶしたのである。さらに重要なことは、柿野の主張したことは、同志谷風と松代との間での、〔椿原が詐欺にあったと自覚したかどうか〕、という評価の対立を止揚する上で重要な発言であったのだ、そのような組織的に深めてゆくべき論議をつぶしたのである。そして松代は、もはや反スターリニズム革命的共産主義とは無縁となった椿原のディベートになんら危機感をもたない態度を示したのだ。  

a 4・16チラシ撒きの問題について

 この問題は4・24に私が会議の議題として提起したが、時間切れで先延ばしになったものである。あえて、ここで明らかにするのは、椿原がこの日の自分の実践を省みず、自分の問題意識からこの日の取り組みの一部だけを切り取り、同志谷風を攻撃するために事実の「捏造」問題として批判してきたからである。詳しい内容は略すが、この問題の主要な事柄は、椿原のこの日の行為によって、4・16の同志谷風と柿野のチラシ撒きを権力、「革マル派」、集会実行委に晒した、ということだ。そのために、権力、あるいは「革マル派」と思われる男に柿野は付け狙われたのである。その上、「革マル派」に機関紙上で暴露されてしまうというおまけまでついた。 〈この日の取り組みについては、椿原はタッチしないはず。そもそも4・16の会場には出席しない予定であった。しかし、30分も集会開始時間を間違えた〉うえで会場に登場し、喫茶店で待機しつつ行動予定を打ち合わせていた同志谷風、柿野に急がせたばかりか、スカスカの会場の中央を歩いてきて堂々と二人に話しかけたのだ。党派的緊張関係の中での「ビラを渡した人間と、もらった人間しかわからないようにササっと、周囲の人間には何事もなかったかのようにまくように」する、という高度な闘いは、椿原の行為によって破産した。権力との、党派的の緊張感が希薄化し、組織性がずっこけている、平和ボケした行為である、というほかはない。対権力、党派的緊張関係の中の会場内での「チラシ捲き」における、椿原のこのような反組織的な行為を隠蔽し、自らの行為を正当化するために、椿原は同志谷風による「捏造」問題をこしらえ、同志谷風を叩こうとしてきたのだ。 これは椿原の自己保身を動機とした居直りである。そしてそのために使った政治技術である。椿原はそのような特技を直そうとはしないのである。胸を張って堂々とその特技を行使するのである。

 b 椿原のよって立つもの、自己肯定の哲学

 しかし、なぜにこれほどまでにも、同志の批判を蹴飛ばすことができるのだろうか? 確信に満ちて蹴飛ばすことができるのだろうか? 批判してくる相手を叩きつぶすかのように批判者の問題を作り上げ攻撃できるのであろうか? 「深刻な問題を抱えて苦悶している……相手にとっては危機に追い込むことにすらなりかねないことはご承知いただきたい」(「相続問題についての私の反省(3) Tu0709」)と椿原は書いている。「相手によっては」と自分ではないかのように書いてはあるが、「マインドコントロール」といわれて混乱し反省ができなくなった己の弱さ、「このみすぼらしい己」を見つめ断固としてのりこえるとは書いていない。そういうふうに考えることはないのである。批判者の思想闘争の問題として注意を促すというのだ。〈自己変革という考えが根付いていない、いや無縁である、と言わざるを得ない〉。

 そのまえの段落には「錯乱した断定にもとづいて、私に対する処分が行われた。……私はそれを受け入れることができず、逃亡し、復帰するときには、二度とあんなことはあってはならない、という深い確信を持った」と記している。「錯乱した断定」かどうかはB’が分からないので判断を留保せざるをえない。したがって、処分が妥当であったのか不当であったのかも判断ができない。しかし、椿原が「逃亡し、復帰」したのは事実である。 だが、「逃亡」したという自らの実践について反省し、組織的に区切りをつけた、ということを私は椿原から聞いたことが無い。「あんなことはあってはならない」という決意の大きさだけが、主張されそれが前面に出て「革マル派」へ攻撃しているだけである。だが、「逃亡」したこと「復帰」したことは単なる事実で済ますわけにはいかない問題である。すべては、処分は不当だと相手「革マル派」官僚が悪い、問題であると考え、逃亡した自分を不問にし、その質を、その限界を、どのようにのりこえてきたのか、という肝心なことが欠落しているのだ。椿原の文章には、このような自己変革の苦闘というものが書かれていないのである。 さらに椿原は数年前、「○○大学は三流大学だ」と同じ○○大学出身の同志谷風の前で語った。このことについて同志谷風は文書で批判した。椿原は「大学出を鼻にかけている連中がいるが、たかが××大学だろ。東大を出ていないくせに、と鼻をへし折ってきた、そういうイデ闘がつい出てしまった」、とびっくりするような言辞を弄したのだ。内なるエリート主義が何ら変革されていないのである。かつて「革マル派」時代に問われてきた数々の否定的傾向のどれ一つとして自己変革してこなかったのだ。 自己変革とは無縁であるということは、「革マル派」時代から一貫しているのだ、と言わざるを得ない。私は、そのことに気が付くのが遅かった。本当に遅かった。

 詐欺問題で解ってきた様々なかれの居直り、自己保身からとらえ返すと彼の実践のすべてが氷解する。それは単なる「癖」「特技」なのではない。筋金入りの自己肯定の哲学なのだ。私たちは、「……プロレタリア的諸個人の・前衛組織を溶鉱炉とする・人間変革の過程……」(『組織論序説』)という同志黒田の革命論を捨てた「革マル派」と訣別してそれをのりこえた党を創ろうとしてきた。既に4年が経つ。椿原は、その間に過去に問われていた自己の否定的傾向をさらに純化し徹底化させてしまった。

 私は、そう言わざるを得ない。悔まれてならない。