黒田寛一の哲学をわがものに その3

Ⅰ 「プロタリアの階級的自己組織化」について

 

1 プロタリアの階級的自覚を促すことを投げ捨てた革マル派

 

 私は、かつて、組合員に階級的自覚を促し組織化するために革マル派官僚どもに対して、イデオロギー闘争を挑んだ。以下に、当時提出した文書から、関係するところを引用する。

 

[『〈最後の言葉〉を吐いたK.Mryに問う』 12・26 J]について(敬称略)2019.01.14Kr より

 

「 3 ここで私の現段階での〇〇〇闘争の問題点について今日的な見解を述べる。

  • メーデーでのビラまきについて …… 略
  • 分会1番KTが「KMは味方ではなかったのか」と発言したことをめぐって

………

 そして何故「既成労働運動指導部を解体し換骨奪胎してゆくことのできる組織的基礎」(『労働運動の前進のために』黒田寛一)を△△組合内に創りだすことができなったのか、ということについて考えるべきなのである。このことは、〇〇〇闘争終結頃、私が強調した事である。このことに心を砕いて闘っていたのは、「排除」されていたKMその人である。

 私は、さらに付け加えたいことがある。

30回程続けていた、MAJを対象とした学習会を取りやめたことについてである。

SSZのMO批判の中で、MUの批判をKMが受け止めなかったことが原因として書かれているので、KMに聞いたところ、KMは、UMに『資本主義とは何か』(渡辺寛)をやることについて「(MAJの)知的好奇心を満たすものとなっている」と批判された、ということだそうだ。これを聞いた私は、涙が出てしまった。

 このような発言をするUMに危機感を持たない組織指導部とは、一体如何なる体質なのか? 「KMのいうことに惑わされず対決できるようになった」と賛美した同志がいたという。さらに、それを聞いた組織指導部が何をしたのか? UMの主張に沿ってこの学習会を止めたということは、SSZの文章から伺い知れる。

 反スターリン主義、革命的マルクス主義の価値意識がトロけている、と言う他ない。当時の組織指導部による〇〇〇闘争への指導の否定的本質を端的に表している。

 

 「資本制社会の直接性においてある労働者、あったままのプロレタリアは、生きてゆくための諸手段を買うための貨幣(おかね)を手に入れるためには、そのかわりに自己の労働を譲渡するほかないと確信している。いいかえれば彼らは、なにゆえに生活諸手段を生産するために不可欠な一切の生産諸手段を喪失しているのか、その歴史的根拠や現実的意味について無自覚である。生きてゆくためには自己の労働をその買い手に売り渡すほかないということの意味、こうした売り渡しの結果うけとる賃金なるものとはなんであるか、ということについて、ソコ存在する労働者は自らに問いかけることすらしない。生きるために働いているのか、働くために生きているのかさえも、彼らは無自覚なのである。――こうした賃労働者が売り渡すところのものが自己の労働ではなく労働力であることを明らかにし、そしてかかる事態の歴史的成立根拠とそれが変革されなければならない必然性を、はじめて原理的・体系的に明らかにしたのが、マルクス経済学であった。」(『唯物史観と変革の論理』影山光夫)

 

 「組合員としての労働者に階級的自覚をうながし彼らを高め、彼らを前衛党の方向に、イデオロギー的にも組織的にも獲得するために、組合員として前衛党員はたたかうのである」。(『労働運動の前進のために』黒田寛一)

 

 我が指導部はこれらのすべてを投げ捨てた、と言わざるを得ない。プロレタリア的自覚は“闘っていれば自ずと階級的に目覚める”、などとという一種の階級形成論的な考えに陥っているのでないだろうか? 「自覚を促すと称して、実は自覚を待つ、というものに実質上なって」いないか? 我が指導部は、自己が如何に革命的自覚を克ちとったのかと自問したほうが良いのではないか?」

                              以上引用文

 

 〇〇〇闘争における闘争=組織戦術および運動=組織方針上の偏向については省略するが、「組合員としての労働者に階級的自覚をうながし彼らを高め、彼らを前衛党の方向に、イデオロギー的にも組織的にも獲得するために、組合員としての前衛党員はたたかう」のであるが、ここで、われわれがうながす「階級的自覚」とは一体何なのか、ということを想起することが必要である。なぜなら、組織現実論を適用して反省するということよりも、組織化主体たる「前衛党員」が「階級的自覚」の何たるかを忘れてしまっているということが最大の問題だからである。

 

2 「プロレタリアの階級的自己組織化」について

 

 「労働者階級の内にあると同時に外にある」という本質的な性格をもつ前衛党――この党がプロレタリア階級をたえざる階級闘争をつうじて組織化すると同時に、これを媒介として党組織を労働者党として創造してゆく、ということを明らかにすることが「党組織創造論」である。

 これとは別に、黒田は「党による外からの働きかけ」を条件とし媒介されながらプロレタリア階級がいかにして自己を階級的に組織化してゆくのか、自らをいかに現代革命の主体として創造してゆくのかを明らかにすること、このような理論領域を開拓してきた。

 そして、自己を革命的共産主義者へ不断に高めてゆくために、以下のことを心掛けることをも我々に教えてくれた。

 プロレタリアの存在論――プロレタリアとは如何なる存在か? 何を為すべく余儀なくされているか? ということ。すなわちプロレタリアートの場所的=歴史的存在と自己解放の意味について――を経済学・史的唯物論的に明らかにする。このことがまず前提的に、主体的に把握されていなければ、プロレタリアの自覚論をプロレタリア的主体性論も干からびたものになりかねない。

 そして、対象認識の物質的自覚への高まりと、実践を媒介とするこの物質的自覚の主体的自覚への高揚、というわれわれの論理はわれわれの自覚=実践の基本に据える、ということ。

 革命的共産主義者たらんと不断に自己研鑽すること。このようなわれわれが、様々な闘いに労働者をオルグし、闘いのただ中で彼らに階級的自覚を促し、現代革命の主体へと変革してゆかねばならないのである。

                              

 しかし、これはそんなに簡単ではない、と黒田はいう。

「商品市場の特殊的一部門としての労働市場の直接的現実性における階級関係として——だが純粋な貨幣関係によってかくされた階級関係として——あらわれる」。「この労働市場のこの現実こそが、同時に賃労働者(プロレタリア)の歴史的自覚の物質的根拠なのだ」。それ故に、賃労働者は日常的体験を通じて労働市場における自己疎外に陥っていることを感性的に直観している。

 だが、この生きた直観は、それ自身プロレタリアの歴史的自覚ではない。したがって、「賃労働者の生きた直観が歴史的自覚にまで高まるためには、すなわち自己に敵対的に立する資本がほかならぬ疎外された労働の産物であるという自己矛盾的自己同一の自へ、まさにこのゆえに資本そのものを止揚せんとする「現実的な運動」へまで発展せずにはやまないプロレタリア的自覚へ高まるためには、労働市場の現実が「問題」として登場する歴史過程の、そしてそれの理論的分析の、媒介がなければならない。いいかえれば、労働者の自己疎外の完成とその理論的裏付けをえてはじめて、賃労働者の日常的体験を通じての物質的直観は、彼らの直接的生活を保証してしている当の資本制社会構造を現実的に変革せんとする歴史的自覚へ高揚され、かつそれが組織化されて「物質的な力」へと転化されてゆくのである。けだし、この歴史的発展過程は総じて結果において「問題」として意識化されるのだから。賃労働者の歴史的自覚のためのこの理論的な媒介契機とは、いうまでもなくマルクス主義であり、その精華が『資本論』である。」(『プロレタリア的人間の論理』黒田寛一

 さらに黒田は、プロレタリアの物質的自覚は、「労働の資本制的自己疎外の生きた直観においては、「一切の歴史の根本条件」である生産・労働への反省(=分析的下向)を基礎としつつ、その資本制的な形態としての賃労働者としての賃労働(労働力の商品化)の現実的直接性が媒介的に把握され(上向的綜合)、自覚されねばならない。」 つまり、資本制生産が社会的生産の歴史的に規定された一形態であるということ、だから、全自然史的過程における「特定発展段階」であることを把握するものへと高められなければならない、と彼はいう。

 

 黒田は、以上のように、プロレタリア的自覚とは如何なるものであるのかをわれわれに教えてくれたのである。マルクス主義なかんずく『資本論』「史的唯物論」の体得、主体化すなわち“媒介”という重要な作業なしにプロレタリアの歴史的自覚はなしえないということを。

 しかし、現代に生きるわれわれは、さらなる困難に直面している。「労働市場の日常的な体験を通じて自己疎外におちいっていることを感性的に直観している」であろう賃労働者は、労働貴族ら、右翼民同、転向スターリニストたちによって、さらには、資本当局のたえざる生産性向上のための諸施策によって、イデオロギー的にからめとられているだけでなく、「感性」そのものをも疎外されているのだ。故に、独自に、あったままの賃労働者の「感性」あるいは人間性までも変革の対象として関われねばならない。

 その上で、これが最大の問題であるのだが、このプロレタリア的自覚を促すことが、プロレタリアを階級的に組織化することの核心である、ということを「革マル派」官僚において、何ら意識化されていない、ということである。

                            続く

2023.08.23