放射能汚染水の海洋投棄弾劾! 日本の原発・核開発反対!

   2023年8月24日、東京電力は、事故により発生した福島第一原発敷地内に保管されている放射能汚染水を、岸田政府の方針に基づき海に捨てた。以降10月5日、11月2日と連続的に岸田政府と東電は放射能汚染水を海洋投棄した。ドイツ・レムケ環境大臣や、中国政府、太平洋諸島フォーラムなどの反対、さらには全米海洋研究所協会による「中止」要請を無視して汚染水を海洋投棄した、この許しがたい犯罪に対して怒りを込めて弾劾する。

 

イ 風評被害の問題か

 

   この放射能汚染水を東電が海に捨てたことに対して、「ホリエモン」という軽薄な輩ががなり立てた。曰く、「風評被害」を煽っている。福島の人々が「かわいそうだ」、「処理水」は安全だ、これは「中学生の化学のレベルだ」等々。このデマに等しい「ホリエモン」の言辞は全く許しがたい。

 

 私は、放射能汚染水を海に捨てることには絶対に反対である。その理由を、「中学生レベル」とは関係ないきわめて常識レベルの簡単な話から始めよう。

 

● 放射能は毒である。放射線は目に見えず、匂いも、味もない。大量に浴びれば死ぬ。体内にこの放射性物質が取り込まれれば、ごく少量でさまざまな障害を引き起こす。このことを否定する「科学者」はいない。

 この放射能という毒物を基準値以下にし、環境中に捨てることの是非の問題だ。ここでは、このでたらめな「基準値」の問題性については述べない。

 私たちは、「トリチウム以外の核種について、環境放出の際の規制基準を満たす」「アルプス処理水(=トリチウム水)」も薄めて「基準値」以下にして捨てていることは十分に承知している。

 問題は、この毒物を、たとえ「基準値」以下であろうと、環境中に捨てて良いかどうかの問題である。これは、倫理上の問題、汚染物質の海洋投棄を禁止した「ロンドン条約」違反の問題であって、なんら「風評被害」ではない。

 また、何より「基準値」以下ならば危険性はゼロであるなどという主張は、まったくのデマの類だ。

 人間の経済活動によるさまざまな環境破壊が進み、地球が悲鳴を上げている、という危機感を持つ人々が大勢いる。こういう人々の声を背景にしているのかもしれないが、毒物を捨てる、ということへの危機感に対し、「安全だ、安全だ」などと、がなり立てても何もならない。何も解決しない。

● 放射能は毒である。いくら「基準値」以下に薄めても、この海洋投棄は、いつ終わるのか、まったくめどが立っていない。なぜなら、事故を起こした福島第一原発から発生する放射能汚染水は出続けるからである。つまり投棄する放射性核種の総量には「基準値」の規制をかけないのだ。

 この放射能汚染水を捨て続けた、福島の海産物を、消費者が購入するかどうかということである。

 目の前に、放射能汚染水を捨てた海からとれた海産物と、そうでない全く別の地域の海産物が並べられている、とする。消費者はどちらを選択するかだ。こんなことは説明する必要はない。「市場原理」によって決まることだ。これこそ小学生でもわかる常識だ。

 しかも、後述するが、福島の海からの海産物には、放射能が蓄積され、それを食べたら「臓器に異常」が発生する、「赤ちゃんの先天性奇形」が発生する可能性がある、ということを排除できないという、正しい知識を得た消費者ならなおさらだ。

● では、「中学生の化学レベル」の話をしよう。海に捨てるのは、「基本的にトリチウム水」だという。

 前述したように、これも薄めてではある。しかし、このような放射能汚染水には、69種以上の核種が入っている。代表的なものとして、炭素14マンガン54、コバルト60、ストロンチウム90、テクネチウム99、カドミウム113、ヨウ素129、セシウム137、プルトニウム239などである。また、一年間の放射能汚染水の海洋投棄の総量はトリチウムが22兆Bq(ベクレル)、上記の核種で2億15,000万Bqになる。これらの放射性物質は、一部は海底に沈殿するであろう。当然に食物連鎖が問題とる。また、トリチウム水は水である。水素と酸素の結合したものであり、この水素の放射性同位体トリチウムである。したがって気化し、浜風に載って福島の大地を汚染することにもなる。

● 専門的な話こそが問題なのである。御用学者は絶対に口にしない。かつての福島第一原発地震や、津波の警告を無視しした御用学者の言辞の、すなわち嘘、捏造、隠ぺいを駆使した、「中学生レベルの化学」を超えたものがあるのだ。それについては後述する。

● 世界各地でトリチウム被害が報告されている。

カナダ

 ピッカリング重水原子炉周辺では、トリチウムを年間2,500兆Bq(ベクレル)放出。
 周辺の都市では、80%増ものダウン症候群の赤ん坊の出産が増加している。また、中枢神経系統に異状のある赤ん坊の出産も明らかにされている。(カナダ原子力委員会報告)

イギリス

 セラフィールド再処理工場で原子力量労働者が受けた外部被曝線量と、その子供たちの小児白血病との関連を見出した。
 小児白血病は増加しており、被曝をもたらす可能性の核種として、トリチウムプルトニウムがあげられた。(ガードナー報告)

地中海

 魚などの生物にトリチウムが濃縮された。

インド

 ラジャスタン重水炉の風下や下流の村落で、赤ん坊たちの間で先天性の奇形が高レベルで生じている。(イギリス4チャンネルテレビ)

アメリ

 ハンフォード軍事施設周辺で、神経系統異常出産(無脳症など)が、増加していまる。(父親がハンフォード軍事施設で働いている息子であるSever報告)

 サウスカロライナ州サバンナリバー工場周辺では、大人の白血病が増加している。また、同州バーンウエル地区の周生期(出世期~早期新生児期)の、死亡率が高いことも非公式に伝えられている。(アメリカガン研究所NCI報告)

日本

 トリチウムを大量に放出する加圧水型原子炉である玄海原発や、泊原発周辺では明らかな健康被害のデータが示されている。

 

最後に

 福島の人は「かわいそうだ」、とホリエモンは言う。確かにその通り。全くその通りだ。だが、このような事態を招いたのは、東京電力と日本政府と、安全神話をでっち上げた御用学者たちではないのか。地震津波が来ることを警告されても、一顧だにせず無対応であったではないか。一切の責任は彼らにある。「中学生レベルの化学」以下の人々による、マスコミによる「風評被害」の問題などでは、決してない。

 

 問題はさらに深刻なのだ。それ故に私は警告する。

 福島第一原発周辺の人々が、トリチウム水による内部被曝による健康被害、つまり、白血病、臓器の損傷、子どもの奇形などを発症するであろうことを。
 今また御用学者の「中学生レベルの化学」を総動員して、岸田内閣は「緩慢な殺人行為」という犯罪を行っている。

 

ロ 次に、私は、必ずしも反原発を主張しているわけではない科学者の、放射能汚染水の海洋投棄にかんする見解を紹介する。

 

  • 全米海洋研究所協会が海洋放出に反対声明

 全米海洋研究所協会は「前例のない放射能汚染水の太平洋への放出」と明確に規定し、放射性廃棄物の貯蔵・保管に関する「安全性の結論に欠陥がある」と、痛烈に批判した。

東京電力と日本政府が提供したデータは不十分であり、場合によっては不正確である。サンプリングプロトコル、統計デザイン、サンプル分析、仮定に瑕疵があり、その結果、安全性の結論に欠陥が生じ、処分の代替手段をより徹底的に評価することができなくなるのである。放射性廃棄物を安全に封じ込め、貯蔵し、処分するという問題に対処するためのあらゆるアプローチが十分に検討されておらず、海洋投棄の代替案は、より詳細かつ広範な科学的厳密性をもって検討されるべきである。」

 

 その上で太平洋への「放出を中止」し、他のアプローチを追求せよ!と、日本政府と東電に要求を突きつたのである。

 

「私たちは日本政府に対し、前例のない放射能汚染水の太平洋への放出を中止し、海洋生物、人間の健康、そして生態学的・経済的・文化的に貴重な海洋資源に依存する地域社会を守るための他のアプローチを、より広い科学界と協力して追求するよう強く求めます。」(全米海洋研究所協会の声明2022.12.12)

 

 さらに、この『声明』は、次のように具体的に、日本政府と東電が、希釈して海へ放出するにあたって無視していること、アルプスが放射性核種を除去できていない、と鋭く問うている。

 

「この汚染水の放出計画は、海洋生態系の健全性、および海洋生体系に生命と生活を依存する人々にとって、国境を越えて懸念される問題である。私たち(※筆者注:全米海洋研究所協会NAML)は、各タンクの放射性核種含有量、放射性核種を除去するために使用される多核種除去設備(高度液体処理システム)(ALPS)に関する重要なデータ(critical data)がないこと、そして汚染された廃水の放出に際して『希釈が汚染に対する解決策 』という仮定について、懸念を有している。」とし、「希釈の根本的な根拠は、有機結合、生物濃縮、生物濃縮という生物学的プロセスの現実と、局所的な海底堆積物への蓄積を無視している。蓄積された廃棄冷却水に含まれる放射性核種の多くは、半減期が数十年から数百年に及び、その悪影響はDNA損傷や細胞ストレスから、アサリ、カキ、カニ、ロブスター、エビ、魚など影響を受けた海洋生物を食べた人の発がんリスク上昇にまで及ぶとされている。さらに、多核種除去設備(ALPS)が、影響を受けた廃液に含まれる60種類以上の放射性核種(その一部は人を含む生物の特定の組織、腺、臓器、代謝経路に親和性を持つ)をほぼ完全に除去できるかどうかが、重大なデータ(critical data)がないため、依然として深刻な懸念として残っている。」

 

  この『声明』は極めて重要で、全米海洋研究所協会の『反対声明』と同協会の科学者の働きかけがあって、太平洋諸島フォーラムヘンリー・プナ事務総長が放射能汚染水の海洋投棄に反対するという発言をしたのだ。

 

② トリチウムの脳などへの危険性 発達障害の原因と発症メカニズム』(黒田洋一郎、木村・黒田純子著)より

 この著書において脳科学者である黒田洋一郎と木村・黒田純子は、トリチウムの脳への影響、脳障害を引き起こす危険性について、警鐘を鳴らしている。

トリチウムの毒性は特別」で、トリチウムは体内のほとんどの有機物と直接結合し慢性毒性を持つ」。「これは受精の際の問題だが、その後胎児が成長すると、脳細胞のDNAは特に活発に活動して脳を共発達させてゆく、トリチウムは脳細胞でも、被曝したDNAに異変を起こし、異常を生じさせる」。「最悪の場合はDNAの塩基間の水素結合を壊し、DNA二重らせん構造はもはや機能を失ってしまう。そのため脳のあらゆる種類の細胞は細胞死を起こす可能性が高まり、脳機能の要である神経回路網の異常の原因となる。認知機能も低下、運動機能の低下など、子供の脳の発達を妨げるだけでなく、大人の脳機能も低下し、認知機能がトリチウム被曝でおかしくなる可能性がある」。「日本ではアルツハイマー病、パーキンソン病ばかりではなく、統合失調症や一般の精神疾患も、福島事故以降日本で急に増えている。発達障害アルツハイマー病などの脳関係の疾患については「トリチウムの脳細胞への長期蓄積による神経細胞などの異常、脳機能への影響の原因」とすれば説明できる。」と述べている。特にトリチウムは「神経情報をはこんでいる電気コード(軸索)」に残留・蓄積するために「脳神経の機能回路に与える影響が甚大」だという。

 

                     2023.11.05 

民族主義、宗教対立をのりこえ、人道主義の限界を突破し、反戦闘争を創造しよう!!

   国連安保理において、米英と中露の醜悪な政治的駆け引きでパレスチナハマスイスラエルシオニストネタニヤフ政権との戦争を「中断」、「停戦」を求める4本の決議案が成立しなかった。トルコ・エルドアン大統領は、国連安保理の「不公平な姿勢」と国際社会が「イスラエルの違法かつ自制を欠いた民間人への攻撃」を見て見ぬふりをしていた、と認識し、安保理は「国連機関を機能不全」に陥らせている、と見解を述べている。また、彼は、「ハマスはテロ組織ではなく解放集団で、土地と人々を守るために戦う『ムジャヒデン(聖戦戦士)』だ」とも発言している。また、ヨルダン・ラニア王妃は、イスラエルを支持する欧米を「明らかな二重基準」だと批判した。このようなアラブ・イスラム国家権力者の声に押されて、グレーテス国連事務総長は「ハマスによる攻撃が理由もなく起きたわけでではないと認識することも重要です。パレスチナの人々は56年間にわたり、息の詰まるような占領下におかれています。彼らは、自分たちの土地が入植によって食い荒らされるのを目のあたりにし、暴力に苦しめられてきました」、と発言した。

   さらに、国連総会・緊急特別会合では、ヨルダンが提出した「人道的休戦要請」が、採択に必要な投票全体(賛否のみ)の三分の二以上にあたる121カ国の賛成で採択された(反対はアメリカなど14カ国、棄権は日本を含む44カ国)。ようやく、アラブ諸国が作成し、40カ国以上が共同提案国となった「即時かつ持続的な人道的休戦」案が採決されたのだ。こうして、米欧帝国主義国のイスラエル支持とかれらの唱える「人道」なるものの欺瞞性が浮き彫りになった。

   明らかに世界は、イスラエルの全てのインフラを停止するなどの「非人道的な」策動、人道支援を認めないガザ=「concentoration camp(強制収容所)」への空爆と地上侵攻に対し、反対の声を挙げているのだ。

 これに乗じて、スンニ派シーア派の国際武装集団が、こぞって「ユダヤ人をねらえ」「イスラムの国を開放するのはジハードだ」、イスラム教徒は「団結を!」という声名を発し、イスラエルイラクの米軍基地などに軍事攻撃を仕掛けている。

 

 既に空爆をくりかえすばかりか、インフラを遮断し「concentoration camp(強制収容所)」と化しているガザ地区に対し、イスラエルシオニスト・ネタニヤフ政権は、今まさに地上侵攻を開始している。アメリカ・バイデンは、「我々はイスラエルとともにある」と、イスラエルと一体であることを宣言した。このバイデンのアメリカは、100億ドルの軍事支援を約束し、二つの空母打撃群を地中海へ派遣するなど、全面的にイスラエルを支えている。 そればかりではない、イラク、シリアのシーア派「拠点」の空爆を開始し、イランを恫喝している。他方、ハマスをイランとともに支えているロシアプーチンは、ワグネルを派遣するという非公式の情報も飛び交っている。ハマスの幹部とプーチンは会談を行っている。

 

 採決された、国連の「人道的休戦」を踏みにじって、アメリカと一体となったイスラエルのガザへの軍事侵攻、パレスチナ人へのホロコーストは、新たな世界的規模での戦争への拡大になるのは必至だ。

 

   世界中で宗派を超えてイスラム教徒が、イスラエルの「ジェノサイド」や「ホロコースト」を糾弾している。そして、アメリカの「平和を求めるユダヤの声」をはじめとする世界のユダヤ教徒たちが、ネタニヤフ政権のイデオロギーパレスチナ人は動物だ」というイスラエル至上主義を、「シオニズムによる軍事信仰」を批判し、パレスチナに「平等と正義、自由」を、と訴えている。アラブ民族主義イスラム教、ユダヤ教をこえて、人道主義者たちが、イスラエルパレスチナ人民への「ホロコースト」に反対している。

 

今こそ全世界の労働者・人民は国際的な反戦闘争に起ちあがろう!!

イスラエルによるパレスチナホロコーストを許すな!

ハマスは自暴自棄的な対イスラエル軍事攻撃を止めよ!

民族主義、宗教対立をのりこえ、人道主義の限界を突破し、反戦闘争を創造しよう!!

 

                       2023.10.19

「クライメートゲート事件」——IPCCによる地球温暖化説の捏造事件

クライメートゲート事件」——IPCCによる地球温暖化説の捏造事件

 

 「クライメートゲート事件」、この呼び名は、イギリスのジャーナリストであり作家であるJ.デリングポールが、アメリカ・元ニクソン大統領の陰謀暴露事件に倣って使ったものである。

 この「クライメートゲート事件」は、当時、「地球温暖化の捏造疑惑」として世界中に広まり、「IPCCは科学の正道を踏み外した」(サッチャー政権の首席科学顧問だったキング卿)との発言あったり、イギリス物理学会が意見書を出したりした。さらに、IPCCよりであったジャーナリストが〝温暖化の断筆〟(カナダのM.ムーア)をするなど、マスコミ界にも多大な問題をつきつけた。「気候変動の主因は自然現象」と従来の見解が再確認され、「二酸化炭素地球温暖化」説は「詐欺の類」というレッテルが貼られたのである。

 今改めて、この「クライメートゲート事件」についてブログに掲載するのは、「GX脱炭素電源法」が岸田政権によって成立され、さらに、脱原発の運動に「二酸化炭素地球温暖化」説に無批判的な諸潮流が浸透してきたたからである。「人間が排出した二酸化炭素が地球を温暖化させている」、という根も葉もない非科学的主張が社会を覆っている、という21世紀の天動説がまん延しているからである。

 

☆発端

 2009年11月17日、イギリス・イーストアングリア大学気候研究所ユニット(CRU)のサーバーから交信メール1073件と3800点ほどの文書が、「気候科学の実態と、背後にいる人物の素顔を見抜く一助になろう」というコメント付きでブログサイトに流出した。

 交信欄はイギリス2か所アメリカ11か所のほかドイツ、フィンランド、ノルウエー、ニュージーランド。特に重要なのは、CRU、NASAゴダード研究所(GISS)などである。このCRU、GISSがアメリカ海洋大気圏局、イギリス気象庁が収集したデーターを解析し公表する、というところであった。世界中から集められた気象データーをCRU、GISSで改竄し、地球温暖化を捏造していた――その実態が明らかになったのだ。

 その2年後の2011年11月22日に、さらに5倍近くの大量のメール記録が流出し、さらに2013年3月13日には22万通のメールが放出された。

 そこに登場するのは、CRU所長のジョーンズ、GISSのハンセン、シュミット、アメリカ大気圏研究センター(NCAR)トレンバースら大物である。

 3回にわたってIPCCの主要な人物たちが交わした大量のメール、文書が世界に公表された。世界のマスコミは、二酸化炭素地球温暖化を報道してきたことを謝罪し、今後は報道することを取りやめた。さらには、特番を設け、「クライメートゲート事件」の報道を行った。

 

☆その最大の問題——「地球温暖化説」の捏造と科学への背信

 

地球温暖化説」の捏造

1 IPCCが「二酸化炭素地球温暖化説」に合わせて気温データーを改竄した。改竄したデーターをもとに、「ホッケースティック」を横にしたような気温変化の図を、マイケル・マン(ペンシルべニア大名誉教授)らがIPCCの第三次報告書に「人為的温暖化の決定的証拠」として載せた。

 

 1000年ごろから1400年ごろまで「中世温暖期」と呼称された暖かい時期があり、氷におおわれていない緑であった「グリーンランド」が発見され、バイキングが入植し農耕を始めたのも、この時期である。また、イギリスでワインが製造されるほど暖かった。日本では、平清盛が「マラリヤ」で死んだ、とも言われる温暖な気候の時期があった。さらに、1500年以降1850年ごろまで「小氷期」という寒冷な時期があった。ロンドン市街を流れるテムズ川が厚さ30センチの氷で覆われ人々が往来していた。日本においても寛永飢饉、元禄飢饉が連続して起こり、イギリスばかりでなく日本でも飢えと寒さに震えていた時期だ。

 マンや、ジョーンズらは、「気温低下を消すきわめて人為的な補正」をした。「今の気温が史上最高だという美しい話にしたい、それなら政治家にもわかる」などと恥ずかしげもなくメールで「人為的な補正」を堂々と交信していたのだ。また、いろいろな「補正」を試みたかのような「補正係数」まで流出している。

 彼らの目的は簡単である。二酸化炭素による気温変化とは全く関係ない「中世温暖期」、「小氷期」という時期をなくし、1900年ごろから一気に気温が上昇した、という過去1000年余りの気温変動グラフをデッチ挙げて二酸化炭素地球温暖化を捏造したのだ。当然ながら、カナダ統計学者スティーブ・マッキンタイヤらがどうしたらこのようなグラフが出来上がるのか、その元データー、解析方法を明らかにするよう要求したが、断られ続けた。

 他方においてCRUのジョーンズは、マッキンタイヤらからデーターを要求されている中で、「イギリスに情報公開法があるのを連中が嗅ぎつけたらファイルは消去する」とホッケースティック作成者であるマンにメールしている。さらに「…結局のところ、レールはIPCCが引いたものだったのだ。IPCCの仕事が始まってから、私は何一つ独創的なこと、本質的なことをしてこなかったように思う。もうマントを脱いで、誰かに渡したい」、とホッケースティック捏造謀議に加担をした科学者ブリファ(CRU副所長)の苦悩も明らかにされた。

  ホッケースティックを捏造する彼らは、懐疑派の査読付き論文(当時500篇)をIPCCに採用しない、と明言してその報告書を捨て去った。そうすることで、IPCC報告の2500人の執筆者、査読人を裏切ったのである。明らかに、二酸化炭素と関係ない過去の気温変動を消し去るためにデーターを改竄し、改竄したデーターをもとにして過去の気温変化をデッチ挙げたのである。そのために、「二酸化炭素地球温暖化説」に懐疑的な科学者や反対する科学者をIPCCから追放したのである。

 

 その他、アマゾンン熱帯雨林、アフリカ農業生産、オランダ国土面積、ハリケーン、サイクローンなど科学的な根拠などない危機煽りの主張も事実を持ってでたらめであることがばれてしまった。これについては、省略する。

 

2 科学への背信

 1998年以来地球は、温暖化の停滞もしくは気温低下傾向が20年近く続いていた。このことは「温暖化のハイエスタス」といわれている。

 このような「温暖化のハイエスタス」に直面して、アメリカ大気圏研究センター(NCAR)のトレンバースは「(1998年以降)温暖化が起こらなくなった原因は今のところ説明できない。われわれプロにして、こんなことができないとはお笑いだな」、というメールが、また、CRUのジョーンズは「もし自分が1998年以降、気温低下がおこっていたといってしまったら、世間から袋叩きに遭うに違いない。その現象は実際に起こってているんだが、まだ7年だけだから、統計学的には意味がないと言っておけばいいだろう」というメールのやり取りが暴露されてもいる。

 トレンバースやジョーンズ、マンたちは、このままだと「地球は火星のようになる」と煽情的に煽っていた。その言説を信じ込んだグレタのような人々は、「地球は燃えている」などと、危機感をあらわにして二酸化炭素の排出削減を訴えていたのである。そのさなかに、彼らは内々で「お笑いだな」とか「世間から袋叩きに遭う」などと言っていたのである。

 なんということか!!

 二酸化炭素量は幾何級数的に上昇しているにもかかわらず、実際はこの「ハイエイタス」が20年も続いていたのだ。このことを考えると、もはや「二酸化炭素地球温暖化説」は科学的真実ではない、と事実をもって断言できる。

 

科学者の風上にも置けない、とはこのことである。

 

 「二酸化炭素地球温暖化」を捏造している彼らは、確かにその信念は一貫している。彼らの主張で正しいことは、ひとつ。二酸化炭素は温暖化物質である、ということ、これだけだ。

 そのうえで、マウンダー極小期から現在までの全太陽放射照度の変化を0.1%とし、「太陽11年周期」は0.1度の変化しかもたらせない、と断定している。それを1610年までさかのぼっての黒点数や極氷、木の年輪に記された放射性同位体から、推定して結論付けた、という(その生データは提出されているのだろうか、そして査読を受けているのであろうか?)。

 

 これまで地球の気候変動に直接影響するのは、太陽からの光、熱であろうと考えられていた。そして、大気圏外の衛星測定で、短期的にはその変化は極めて小さい、ということが判ったことも事実である。また、「太陽11年周期」の光と熱(電磁波)がこのように僅かである、ということは地上生命体にとって、幸運であるといいうることがらではある。だが、IPCCは太陽からの、太陽の電磁波(光と熱)しか考えず、短期的に電磁波がわずかにしか変化しない、ということで地球の気候変動に太陽の影響は「無視しうる」と結論付けてしまっているのだ。明らかに、荷電粒子(宇宙線)の強度変化を無視していることが問題なのだ。

 宇宙線の強度変化は雲量の増減をもたらし、これが気候変化をもたらしているといこともわかっている。そして、今日、太陽活動の変化による宇宙線の変化と気候変動の変化が対応していることが判ってきた。同時に宇宙線と「雲による寒冷化」ということも科学的にわかってきている。

 

 IPCCに巣食う人々は古気候学、気象学、地球惑星科学、宇宙気象学、宇宙物理学の数々の気候変動に関する発見と理論を排斥し、気温変化は二酸化炭素だけによるものだ、という非科学的な考えに固執している。これは、21世紀現代における天動説を思わせる錯誤である。反対する者を排斥する態度は、中世の宗教裁判を彷彿させる。宇宙-自然をすべて分かっているかのようにするのは、スーパーコンピュータで自然を再現できる、というぬぼれである。コンピューター物神に侵されているだけである。「IPCCは自然を忘れてしまった」「科学ではない」という批判がなされているのも当然だといえる。

 事実、全米気象協会のテレビ気象予報士537人のアンケートでは、63%が気候変動の主因は自然現象」、27%が「地球温暖化論は詐欺の類」(2010.3.29)と回答している。

 私たちは、古気候学、気象学、地球惑星科学、宇宙気象学、宇宙物理学などの学問的発展に基づく地球の気温変動に関する主張、理論にたいして、これらを謙虚に受け止め、主体的な判断をしなければならない、と思う。

そして、それらのすべてが、気温変化は自然現象であることを示している。

黒田寛一の哲学をわがものに その3の3

Ⅲ 1951年に執筆し、1960年に『プロタリア的人間の論理』として発刊されたこの論文と、一体どれほど人たちが主体的に格闘したのであろうか。革命的自覚において定立する「自由の王国」、そのイデーについて、内から衝き動かすもの、原動力、理性的目的について、語った人を、わたしは知らない。それほどまでに「革マル派」「探究派」を語る自称「革命的共産主義者」の歴史的自覚内容は底が浅い。「革マル派」については、冒頭に述べたのでここではくりかえさない。

 

「探究派」の松代においては―

   私は、松代が主張する現代世界の変革主体・歴史創造主体の形成の論理なるものを、現代における労働者の革命的自覚を通り越して、実践主体の実践的能力の問題へと論点を移行させてしまっている、とすでに『訣別宣言』において批判している。

 彼は、「レーニンが言うように「自然発生的志向から労働運動をそらす」のが前衛党の任務なのか」(2023.05.12)と題する自身のブログで、次のように展開している。

「労働者に、まさにその「労働者と雇い主との関係」そのものについて考えることをうながすべきなのではないだろうか。

 労働者は、自分を経済的に苦しめ生活苦につきおとしている雇い主に怒って起ちあがったのである。労働者に、自分の雇い主とは何なのか、こいつに雇われている自分とは何なのか、と考えることをうながさなければならない。そして、自分の雇い主は資本を体現しているのであり、自分は賃労働者であって、こいつに自分の労働力を商品として売ったのであり、こいつにこき使われて搾取されているのだ、資本が賃労働を搾取するというこのような関係は、直接的生産者から生産手段を収奪した連中が資本家階級となり、生産手段を奪いとられた者たちが労働者階級になったということを根源するのであって、この関係をその根底から転覆するために自分たちは労働者階級として団結しなければならない、ということを労働者たちにつかみとらせなければならない。さらに、彼ら労働者たちに、「一般民主主義」というようなものを希求することを克服し、ツァー専制権力の打倒を、自分たち労働者たちの権力の樹立、すなわちプロレタリアート独裁権力の樹立として実現しなければならない、というように、前衛党とその諸成員は明らかにし、労働者たちの意識をたかめていかなければならない」、と。

   彼は、これを「労働者階級の階級的組織化論」と規定している。「探究派」の面々が賃労働者をオルグする内容を述べたものであろう。

 だが、このようにして組織化されたプロレタリアは果たして共産主義者足りうるのであろうか? 革命的に自覚したプロレタリアの「内から衝き動かすもの、原動力、理性的目的」については埒外であったとしても、かれに組織化された労働者の自覚内容、主体的支柱は、せいぜい反資本主義的自覚止まりである。「労働者階級として団結」する、といってもその主体的根拠についても論じてはいない。そしてこのことには、松代の自己形成、なかんずく革命的自覚のための主体的努力の欠如という問題があるのではないか。

 プロレタリアートは解放闘争を通じて「個人的諸利害を階級的諸利害として組織し動員し、もって階級的全体性として」己の主体性を確立する。さらに、「人間の普遍的解放を主体的原理とした」「社会的全体性と個人性との統一」しうる「共産主義的人間」へと自己を高めてゆかねばならない。それゆえに「報いられることを期待することなき献身」をもって解放闘争の先頭に立つことも可能になる、と黒田は教えてくれたのではないだろうか。我々は、不朽せる21世紀現代においてプロレタリア革命を実現するには、革命的に自覚したプロレタリアート、すなわち「共産主義的人間」以外には不可能であることを自覚すべきである。

 

Ⅳ 松代の黒田批判についての覚書

 

  「プロタリアの階級的自己組織化」については、Ⅲで完結している。この覚書は本文章とは関係ない。この文章を書いている最中に『ナショナリズムの超克』(プラズマ現代叢書5)が出版された。この書籍の中で松代の黒田批判が展開されているが、あまりに読むに堪えなかったので、この覚書を加えた。私は、いまだ黒田寛一の『実践と場所』ときちんと格闘していない。そのために黒田哲学をわがものとすべくもがいているところだ。『実践と場所』ついては、近い将来全実存をかけて対決し格闘するつもりでいる。

   したがって、ここでは思いつきではあるが、アットランダムに書き記しておこうと思う。

 

◆黒田は「縄文土器時代のひとびと」という限定付きの「アニミズム」「シャーマニズム」「祖霊信仰」について論じているのにもかかわらず、松代は、アニミズムシャーマニズム、祖霊信仰をどこの国でもないものとして描き出し、黒田に噛みついている。

 

◆「もののあわれ」について

   松代が言う「あらゆる労働者は、労働のまっただかでは「もののあわれ」という情感をもつことはない」、ということについては私も同感である。日々の労働において私が感ずるものは、「まだ、○○時か、あと何時間」ということ、ランナーズハイのような一種の無意識状態の中で子供頃の遊んでいた野原や、自然の情景が、春には蝶々を、夏には蝉を、秋にはトンボを追っかけまわしていた記憶が、ポッ、ポッと断片的に浮かんでくることだ。労働者は、それぞれの資本の労働過程に規定されて、さらに己の人間的土台に規定されて、様々なことを感覚するのだと思う。もっぱら、とてつもない疲労感から何も考えられず、「また明日会社に行くのか」、誰かが、ケガをしたと聞いて「明日は俺かな」、とか、会社のその労災事故にたいする資本への対応に怒ったりとかの繰り返しの毎日である。即自的にはそのようなものである。

  その労働から離れた時に感じた時がまさに重要であると思う。しかし、松代は疎外労働から「しばし離れることができたときに感じることがあるものとして分析しうるにすぎない」、という。これは客観主義を通りこしている。私は実に正直に言っていると思った。「ああ、この感情だ」と己の感情を自覚できた松代は、「共産主義者」になったら感情・情感が干からびてしまった、ということを自ら書いているのだ。現代日本資本制社会、この中で生きている現代のプロレタリアは「もののあわれ」を情感する情緒すら「破壊」されている。共産主義的人間はこの社会で真実のありうるべき人間として、この「情緒」をも自己変革して、より豊かなものへとゆかねばならないと、私は思う。

 「もののあわれ」は、単に自然に対して感ずるものではない、人間・社会についても言えることは鴨長明が教えるところのものでもある。また、「平家物語」にも「所業無常の理」とある。現代に生きる我々は、春、夏、秋、冬という季節の移り変わりや、お盆の時、などなどいろいろな時に感ずるものであろう。松代は、「日本人固有の情緒」というものが特殊的個別性として日本の革命運動に重要であることを自覚できないのであろうか。

 同じことであるが、夏祭りは神輿、山車など神事に打ち興ずる庶民という名の多くのプロレタリアが存在する。少し前には「やおよろずのかみ」であるトイレの神様を歌った歌手がいた。年末の紅白歌合戦にも彼女は出場した。新年には多くの庶民=プロレタリアが神社に初詣に出かけ、雑煮を食べ、七草がゆを食べる。これらのことは、日本人に特有なことがらでもある。疎外労働をしている時とは、異なる・この疎外労働から離れた時に行うときの、このような意識をも疎外された、プロレタリアを我々は組織化するのだ。       

 「労働力商品としての自己存在についての自覚をもっていない賃労働者」が同時に「日本人らしさ」を喪失している、この労働者をわれわれは組織化する、という困難さを自覚できないようだ。松代のこの黒田批判は随所に結果解釈的なものを感ずる。また、彼は日本人ではない、あるいは日本社会を超絶しているかのようだ。あるいは、お腹のなかの「日本人」ということを知覚できないのであろうか。

 

軍国少年

 黒田は「敗戦を自然現象のように受け取った」。「これで安心して生きて行ける」と子供心に受けとめたという反戦・平和をたたかう老女性(横湯園子)もいる。中沢啓治のような人もいる。『この世界の片隅に』の主人公のような人もいる。高知聰のような人間もいる。だが、みなが皆「軍国少年」であったわけではないのだ。

「気持ちと情感そのままによみがえったのではないだろうか」、という推論で黒田は、軍国少年であったに違いないと、断定してしまうのはいかがなものか。

 

 

 イデオロギー論主義という誤謬についてわれわれはどのように学んできたのか。丸山真男は、スターリニストは、イデオロギーをそれが生みだされた社会階級的基礎や社会経済構造に結びつけ、そのように物質的基礎に還元し解消していると批判してきた。

 それは、スターリニストが、エンゲルスが「イデオロギーはそれ自身の歴史をもたない」(『ドイツイデオロギー)と書いていることに依拠して、イデオロギーには相対的独自性があり、内在的に、不均等に発展すること、「それと同時に、自立化したイデオロギーは、その発生基盤にたいして反作用をおよぼす」、ということを完全に否定するというタダモノ主義に堕しているからだ。唯物史観の基本とこの唯物史観の公式主義的アテハメとを、われわれははっきりと区別すべきである。

 

 梅本克己の次の言葉を思い出すのもよいであろう。

 「没価値的機械的動因が価値的動因に優先するのは原初的な一時期においてであって、その限界の外では両者は相互に弁証法的交渉をたどる。この弁証系列からそれぞれに断片を抽象すれば、反映の機会化と主体の絶対化が行われるであろう。」(『過渡期の意識』)

 

 我々は、W→A⇒B➡C➡D、W⇒W′→B➡C➡Dの構造を適用しつつ読み込まなければならない。①W→A、②W⇒W′、③A⇒B➡C➡D、④W′→B➡C➡Dということに注意し、何をどのように論じているのか、とアプローチする必要がある。(黒田著『マルクス主義形成の論理』を参照)

 

 そしてDを資本制社会とおけば、資本制社会の中の日本型資本制社会を黒田は論じているということを、我々は自覚しなければならない。つまりD(J)と記号であらわすことができると思う。アメリカはD(A)、イギリスはD(E)等々と記号化できる。黒田は、これら個々の個別の国家の資本制社会の解明という、マルクス主義における未踏の領域を開拓している、という実践的意義を私は受けとめた。その場合でも論理的=歴史的、歴史的=論理的な叙述を心掛けねばならない。さらにわれわれは、「この叙述において注意さるべき点は、本質論的追求と疎外論的現実論とがかさなりあって展開されている」箇所(イデオロギー一般、科学、芸術など)がある、ということにも考えを広げなければならない、と思う。つまり、黒田の縦横無尽な認識=思惟活動(このような表現が当たっているかどうかはわからないが)にも、われわれは注意して読まなければならない、と思う。

 

 思うに、われわれは、世界革命の一環として日本革命を我々は目指している。だからこそ、日本人たるのメンタリティーと、日本的風土を史的唯物論的に明らかにすることが重要である。オルグ主体たる革命的共産主義者オルグ対象たる労働者も日本人だという常識的観点からだけでなく。革命後の支配階級となった日本プロタリアートは、プロレタリア独裁権力を樹立し、直ちに経済建設と同時に文化革命をも着手しなければならないのであり、これは、革命ロシア、ソ連邦におけるスターリン専制国家成立過程における、1921年以降の「非ボルシェブィキ哲学の清算の端緒をなした」反宗教宣伝、宗教迫害とその「非ボルシェブィキ哲学の清算」という誤りを繰り返してはならない、という問題にかかわることでもある。

◆人類の起源についてー最新の知見

 ホモ・サピエンスネアンデルタール人、デニソワ人という三種の人類は、数十万年にわたって共存し、互いに交雑することによって、遺伝子を交換してきたこともわかっている。 

 ホモ・サピエンスの出アフリカは六万年前だけでなく、四十万年前よりもやや新しい時代にもう一度あった、あるいはユーラシア大陸で他の人類から進化したと考えることもできる。 

 人類を形態的特徴で区分けした現生人類の集団

ネグロイドコーカソイドモンゴロイド、オーストラロイド   

 

今後、深めなければならないことがたくさんあることを自覚した。                   

 

2023.08.25

黒田寛一の哲学をわがものに その3の2

Ⅱ『プロレタリア的人間の論理』について

 

 階級社会においては、生産的実践が歴史的に独自の形態に疎外される。このことは、マルクス主義者においては常識のことである。そして、生産的実践の歴史的に独自な疎外に関連し対応して、社会的実践もまた、政治的・階級的なものとなる。さらに、政治的・階級的となったこの社会的実践は、社会変革的実践に転換する、と存在論的にはいえる。

 資本制社会においては、プロタリアの階級闘争として、階級的に自覚したプロタリア階級による自己解放の闘いとして「転換」する。

 しかし、この「転換」は自然発生的におこるわけではない。革命的に自覚したプロレタリアが、「場所的限定を否定しようとする実践的意志の立場に自覚的にたたないかぎり」(黒田)、プロタリア階級の実践が変革的実践=階級闘争へ転ずることはできない。

 このことは、何を意味するか。

 プロタリアがいかにして歴史的自覚をかちとるのか、つまり共産主義者へと自らを自己変革してゆくのかという追求が目指されなければならない。プロタリアの解放が同時に全人類の解放となるという世界史的な自覚が、「報いられることを期待することなき献身」をもって、未だ見ぬ将来社会のために実践することへと己を駆り立てる。このような共産主義者によって、プロタリア階級による自己解放の闘いは自覚的、目的意識的なものとなる、ということであろう。

 

1『プロレタリア的人間の論理』について

 

 「プロレタリア的疎外を根底的に変革するための階級闘争を論理的に考察した」(P172附記)という『プロレタリア的人間の論理』。その前書きにおいて、『ヘーゲルマルクス』が1951年2月~5月に、『社会観の探究』が1950年10月~51年1月に、そして『プロレタリア的人間の論理』が1951年11月に執筆されたことが書かれている。これらは、黒田において「私自身の思想変革と形成にとって必然的なものであった」(『プロレタリア的人間の論理』まえがきP8)。「本書で展開されているプロレタリア的人間論(たとえ不十分なものだとしても)が、何よりもまず今日の私自身の背骨をなしている」。それに加えて、「現代のマルクス・レーニン主義を詐称するエセ前衛党を粉砕しつつ、真の革命的左翼を創造することなしには、自己解放をかちとることはできないことを直感しつつある戦闘的プロタリアが、共産主義的人間としての自覚をかちとり、断固として革命的実践を推進していこうとする主体性を確立する――本書は、そのための一助となるであろう」(『同書P10~11』)と述べている。

 われわれは、彼の背骨をなしている『プロレタリア的人間の論理』を我がものとしなければならないと思う。

 ここでは黒田が、革命的な自覚をなしとげ「革命的共産主義者」へと自己変革をなしとげた、その内容について考えてみる。

 

  • 黒田は、最初に「賃労働者の物質的自覚」には現実的根拠がある、という。

 そもそもにおいて、「資本の生産過程における資本関係は直接的にはその媒介的な前提条件としての労働市場の措定作用の結果であるけれども、生産過程の現実的展開を通じて原因としての根源的な階級関係が再生産され結果に止揚されることによって、資本関係のかかる直接的性格は否定されるとともに原因へ転化する。すなわち結果において措定=再生産された階級関係が原因として流通過程へ結果することにより、労働市場の外観は否定される」。このことのくりかえし、反復をつうじて「労働市場における直接的な社会関係、自由契約によって結ばれる商品交換関係は、実は外観・仮象にすぎない」、という現実をあらわにする。こうして、「労働力の商品化あるいは賃労働は、労働者が生活手段をうるために労働市場に偶然あらわれるのではなく、資本制的に疎外された労働が労働市場でとらざるをえない必然的な形態である」、という賃労働者の現実の姿が露わになるのである。

 これ自体は、「資本の自由なる自己運動」なのであり、「ブルジョアジーとプロタリアートとの階級対立として社会的に表現され、さらにこの対立は政治的国家と市民社会との、あるいは自己疎外におちいっている諸個人における政治的公民的生活と私的生活との分裂・矛盾として、表現されるのであって、これらは根源的な資本制生産関係そのものの矛盾の特殊的な諸形態にほかならない」だけでなく資本制社会の「墓ほり人」を創り出すのである。

 

 以上のような「物質的現実」こそが、プロレタリアの階級的自覚の契機となるのである。

 賃労働者は「働けど働けど我が暮らし楽にならず」、他方資本家は富を蓄積してゆく。しかも、賃労働者の生産物が資本の生産物として巨大な力となるまで拡大し、己に敵対的に対立する。にもかかわらず、いつも変わらず賃労働者は生産過程に入り、肉体的・精神的に消耗させて出てくるだけである。それだけではない。賃労働者は肉体的にも精神的にも破壊され不具化してゆき、露命をつなぐための自分の労働力を商品として販売することもできなくなってゆく。このことが、景気循環とも相まって賃労働者は新たに失業者へと編入されてゆく。賃労働者は常に「餓死線上」におかれている。このような自分のありのままの姿こそが、資本制社会において生きてゆくには、労働力を商品として販売しなければならないという労働市場における己自身を疎外された非人間的存在である、と直観するのだ。

 

 「労働市場の直接性における自由契約における平等な商品交換の虚偽性を認識し、労働力の売買は資本制的生産関係の結果に他ならないことを不可避的に反省せしめられるのである。」

 すなわち、「労働市場における自己疎外(=労働力の商品化)は生産過程における自己喪失(=疎外された労働)を物質的根拠とするその結果であることを、賃労働者は自己の人間性―資本制社会でつくられてきた人間性―を土台として直接的に自覚せしめられる」。

 

  • 賃労働者の歴史的自覚

 労働市場での賃労働者の自己疎外という事実――労働諸条件の、一切の生活手段と生産手段、さらに自らの生産物が資本家のもの、彼の私的所有物であること、それ故に自分の労働力を販売しなければならないという現実――それへの義憤を発条にして賃労働者は、日々繰り返されている剰余労働の搾取の直接的原因としての生産手段の蓄積の、かかる資本蓄積の背後にある根源的な原因へと反省を深めてゆく。生産手段からの労働者の分離を物質的基礎とした資本のもとへの包摂という「資本関係を創造する過程」こそが資本制蓄積過程の本質的で根源的な事態であるということを、賃労働者は自覚する。

 「無慈悲きわまる蛮行をもって、かつ、もっとも賤しむべき・最も不浄な・もっとも陋劣にして腹黒き・劇場のもとで遂行され」「血と火の文字(焼き印)をもって人類の歴史に書き込まれた」「資本の史的創成期」こそが「労働者を彼の労働条件から分離する過程」であったことを、資本制生産関係の成立の、資本蓄積の、根源的な事態であることを自覚する。

 まさに、このような「賃労働者における根源的蓄積過程への歴史的反省」=構成は、「プロレタリアートとしての階級的自覚」となる。「こうしてプロタリアは階級的全体性を自己の主体的支柱へ移し入れる」。「その主体性は階級性として」自覚する。「道徳的義憤は主体的反省を媒介として理性化される」のである。

 「プロレタリアートは彼自身の状態のうちに集中されているところの、今日の社会のあらゆる非人間的生活条件を止揚することなくしては、彼自身の生活を止揚することができない」(『神聖家族』)、「プロレタリアートは自分の鎖よりほかに失うべき何物をも持たない、彼らは獲得すべき全世界を持っている」(『共産党宣言』)、という歴史的地位と使命の階級的自覚である。

 

黒田はさらに、プロレタリアの歴史的反省=構成を深めてゆく。

 「プロレタリアにおけるその疎外された人間性の自己否定的な感性的な直観」は、生産様式の歴史的に独自な個別諸形態(封建制生産様式、奴隷制生産様式など)の歴史的反省へと展開してゆく。こうして彼は、「生産と所有とが根源的に統一された社会的生産の本質的形態まで下向してゆく。これはプロレタリアの自己疎外=非人間化を止揚するための「人間労働の本質構造への主体的反省である」。「『人間生活の永遠的な自然条件』を全社会的な規模で、しかも自覚的に実現している『種属生活』への物質的反省である。」

 歴史的反省=概念的構成について黒田は論じているが、そのことについて、ここでは捨象する。「プロレタリアートの社会観である史的唯物論」について、「社会的生産・人間労働・人間的本性をその資本制的形態へと疎外せしめている事態」への概念的把握については極めて重要なことであるが、論じない。さらに、人間労働の資本制的疎外形態としての賃労働の価値的側面からの考察も省略する。

 「根源的な社会的生産においては統一されていた生産と所有との本質的関係が機械的に分裂した・その疎外された諸形態」のひとつとして資本制生産様式をとらえ、かかる分裂そのものを根底から徹底的に変化せんとするプロレタリアの歴史的自覚へと黒田は、さらに深めたのである。

 

  • 賃労働者の革命的自覚=共産主義的人間の形成

 このことは、「プロレタリアートの自己解放が同時にまた全人類の解放として意義を持つこと、プロレタリアートブルジョアジーとの階級対立を止揚、階級一般の絶滅をいみする」ことをも自覚するのである。なぜなら、生産と所有の分裂は階級対立の発生であり、この階級対立の資本制生産の結果として歴史的にプロタリアが生み出されたのだから。

 「プロレタリアートの特殊利害の貫徹は同時に人間の普遍的利害の貫徹として意義をもち、プロレタリアートの完全な普遍的自己喪失の実践的変革は、人間性の完全なる奪回、普遍的=現実的人間性の回復となるのである。プロレタリアートの自己解放は人間の人間的解放である。社会主義の実現である」。かかる「解放の理論的表現」が共産主義である。

 まさに、プロレタリアートの「階級性を土台とした根底的自覚」であるからこそ、「拝金主義」へと自己疎外されているブルジョアジーをも変革しうる「革命的自覚」なのである。

 さらに黒田は、反省をつづける。この人類的解放は、「人間の社会的総欲望と社会的総労働との矛盾を、自然と「社会」=「共同体」との矛盾」を、解決する。物質の「自己運動する社会的生産過程」となる、と。

 

 プロレタリアの革命的自覚において定立されるのは、いまや、この「自由の王国」(『資本論』)でなければならない。それは、根源的な種属生活の奪回であり、人格的に自由な人間が「共同体」の自覚的構成員として、「人間生活の永遠的な自然条件」を実現する経済社会構成のイデーである。「プロレタリアを内から衝き動かすものである。その実現のための革命的実践へかりたてる原動力である。プロタリアートの革命的実践を規定する理性的目的である。」

「ここにおいてプロタリアートは、彼らの疎外された人間性を超越し、歴史の主体へ転化したのである。」

 

「革命的自覚の実現としての階級闘争と前衛党」については略

 

                              つづく

2023.08.24

 

黒田寛一の哲学をわがものに その3

Ⅰ 「プロタリアの階級的自己組織化」について

 

1 プロタリアの階級的自覚を促すことを投げ捨てた革マル派

 

 私は、かつて、組合員に階級的自覚を促し組織化するために革マル派官僚どもに対して、イデオロギー闘争を挑んだ。以下に、当時提出した文書から、関係するところを引用する。

 

[『〈最後の言葉〉を吐いたK.Mryに問う』 12・26 J]について(敬称略)2019.01.14Kr より

 

「 3 ここで私の現段階での〇〇〇闘争の問題点について今日的な見解を述べる。

  • メーデーでのビラまきについて …… 略
  • 分会1番KTが「KMは味方ではなかったのか」と発言したことをめぐって

………

 そして何故「既成労働運動指導部を解体し換骨奪胎してゆくことのできる組織的基礎」(『労働運動の前進のために』黒田寛一)を△△組合内に創りだすことができなったのか、ということについて考えるべきなのである。このことは、〇〇〇闘争終結頃、私が強調した事である。このことに心を砕いて闘っていたのは、「排除」されていたKMその人である。

 私は、さらに付け加えたいことがある。

30回程続けていた、MAJを対象とした学習会を取りやめたことについてである。

SSZのMO批判の中で、MUの批判をKMが受け止めなかったことが原因として書かれているので、KMに聞いたところ、KMは、UMに『資本主義とは何か』(渡辺寛)をやることについて「(MAJの)知的好奇心を満たすものとなっている」と批判された、ということだそうだ。これを聞いた私は、涙が出てしまった。

 このような発言をするUMに危機感を持たない組織指導部とは、一体如何なる体質なのか? 「KMのいうことに惑わされず対決できるようになった」と賛美した同志がいたという。さらに、それを聞いた組織指導部が何をしたのか? UMの主張に沿ってこの学習会を止めたということは、SSZの文章から伺い知れる。

 反スターリン主義、革命的マルクス主義の価値意識がトロけている、と言う他ない。当時の組織指導部による〇〇〇闘争への指導の否定的本質を端的に表している。

 

 「資本制社会の直接性においてある労働者、あったままのプロレタリアは、生きてゆくための諸手段を買うための貨幣(おかね)を手に入れるためには、そのかわりに自己の労働を譲渡するほかないと確信している。いいかえれば彼らは、なにゆえに生活諸手段を生産するために不可欠な一切の生産諸手段を喪失しているのか、その歴史的根拠や現実的意味について無自覚である。生きてゆくためには自己の労働をその買い手に売り渡すほかないということの意味、こうした売り渡しの結果うけとる賃金なるものとはなんであるか、ということについて、ソコ存在する労働者は自らに問いかけることすらしない。生きるために働いているのか、働くために生きているのかさえも、彼らは無自覚なのである。――こうした賃労働者が売り渡すところのものが自己の労働ではなく労働力であることを明らかにし、そしてかかる事態の歴史的成立根拠とそれが変革されなければならない必然性を、はじめて原理的・体系的に明らかにしたのが、マルクス経済学であった。」(『唯物史観と変革の論理』影山光夫)

 

 「組合員としての労働者に階級的自覚をうながし彼らを高め、彼らを前衛党の方向に、イデオロギー的にも組織的にも獲得するために、組合員として前衛党員はたたかうのである」。(『労働運動の前進のために』黒田寛一)

 

 我が指導部はこれらのすべてを投げ捨てた、と言わざるを得ない。プロレタリア的自覚は“闘っていれば自ずと階級的に目覚める”、などとという一種の階級形成論的な考えに陥っているのでないだろうか? 「自覚を促すと称して、実は自覚を待つ、というものに実質上なって」いないか? 我が指導部は、自己が如何に革命的自覚を克ちとったのかと自問したほうが良いのではないか?」

                              以上引用文

 

 〇〇〇闘争における闘争=組織戦術および運動=組織方針上の偏向については省略するが、「組合員としての労働者に階級的自覚をうながし彼らを高め、彼らを前衛党の方向に、イデオロギー的にも組織的にも獲得するために、組合員としての前衛党員はたたかう」のであるが、ここで、われわれがうながす「階級的自覚」とは一体何なのか、ということを想起することが必要である。なぜなら、組織現実論を適用して反省するということよりも、組織化主体たる「前衛党員」が「階級的自覚」の何たるかを忘れてしまっているということが最大の問題だからである。

 

2 「プロレタリアの階級的自己組織化」について

 

 「労働者階級の内にあると同時に外にある」という本質的な性格をもつ前衛党――この党がプロレタリア階級をたえざる階級闘争をつうじて組織化すると同時に、これを媒介として党組織を労働者党として創造してゆく、ということを明らかにすることが「党組織創造論」である。

 これとは別に、黒田は「党による外からの働きかけ」を条件とし媒介されながらプロレタリア階級がいかにして自己を階級的に組織化してゆくのか、自らをいかに現代革命の主体として創造してゆくのかを明らかにすること、このような理論領域を開拓してきた。

 そして、自己を革命的共産主義者へ不断に高めてゆくために、以下のことを心掛けることをも我々に教えてくれた。

 プロレタリアの存在論――プロレタリアとは如何なる存在か? 何を為すべく余儀なくされているか? ということ。すなわちプロレタリアートの場所的=歴史的存在と自己解放の意味について――を経済学・史的唯物論的に明らかにする。このことがまず前提的に、主体的に把握されていなければ、プロレタリアの自覚論をプロレタリア的主体性論も干からびたものになりかねない。

 そして、対象認識の物質的自覚への高まりと、実践を媒介とするこの物質的自覚の主体的自覚への高揚、というわれわれの論理はわれわれの自覚=実践の基本に据える、ということ。

 革命的共産主義者たらんと不断に自己研鑽すること。このようなわれわれが、様々な闘いに労働者をオルグし、闘いのただ中で彼らに階級的自覚を促し、現代革命の主体へと変革してゆかねばならないのである。

                              

 しかし、これはそんなに簡単ではない、と黒田はいう。

「商品市場の特殊的一部門としての労働市場の直接的現実性における階級関係として——だが純粋な貨幣関係によってかくされた階級関係として——あらわれる」。「この労働市場のこの現実こそが、同時に賃労働者(プロレタリア)の歴史的自覚の物質的根拠なのだ」。それ故に、賃労働者は日常的体験を通じて労働市場における自己疎外に陥っていることを感性的に直観している。

 だが、この生きた直観は、それ自身プロレタリアの歴史的自覚ではない。したがって、「賃労働者の生きた直観が歴史的自覚にまで高まるためには、すなわち自己に敵対的に立する資本がほかならぬ疎外された労働の産物であるという自己矛盾的自己同一の自へ、まさにこのゆえに資本そのものを止揚せんとする「現実的な運動」へまで発展せずにはやまないプロレタリア的自覚へ高まるためには、労働市場の現実が「問題」として登場する歴史過程の、そしてそれの理論的分析の、媒介がなければならない。いいかえれば、労働者の自己疎外の完成とその理論的裏付けをえてはじめて、賃労働者の日常的体験を通じての物質的直観は、彼らの直接的生活を保証してしている当の資本制社会構造を現実的に変革せんとする歴史的自覚へ高揚され、かつそれが組織化されて「物質的な力」へと転化されてゆくのである。けだし、この歴史的発展過程は総じて結果において「問題」として意識化されるのだから。賃労働者の歴史的自覚のためのこの理論的な媒介契機とは、いうまでもなくマルクス主義であり、その精華が『資本論』である。」(『プロレタリア的人間の論理』黒田寛一

 さらに黒田は、プロレタリアの物質的自覚は、「労働の資本制的自己疎外の生きた直観においては、「一切の歴史の根本条件」である生産・労働への反省(=分析的下向)を基礎としつつ、その資本制的な形態としての賃労働者としての賃労働(労働力の商品化)の現実的直接性が媒介的に把握され(上向的綜合)、自覚されねばならない。」 つまり、資本制生産が社会的生産の歴史的に規定された一形態であるということ、だから、全自然史的過程における「特定発展段階」であることを把握するものへと高められなければならない、と彼はいう。

 

 黒田は、以上のように、プロレタリア的自覚とは如何なるものであるのかをわれわれに教えてくれたのである。マルクス主義なかんずく『資本論』「史的唯物論」の体得、主体化すなわち“媒介”という重要な作業なしにプロレタリアの歴史的自覚はなしえないということを。

 しかし、現代に生きるわれわれは、さらなる困難に直面している。「労働市場の日常的な体験を通じて自己疎外におちいっていることを感性的に直観している」であろう賃労働者は、労働貴族ら、右翼民同、転向スターリニストたちによって、さらには、資本当局のたえざる生産性向上のための諸施策によって、イデオロギー的にからめとられているだけでなく、「感性」そのものをも疎外されているのだ。故に、独自に、あったままの賃労働者の「感性」あるいは人間性までも変革の対象として関われねばならない。

 その上で、これが最大の問題であるのだが、このプロレタリア的自覚を促すことが、プロレタリアを階級的に組織化することの核心である、ということを「革マル派」官僚において、何ら意識化されていない、ということである。

                            続く

2023.08.23

 

黒田寛一の哲学をわがものに その2の4

 他方において、田辺元の批判を受けた西田もまた、「場所」における歴史行為について深めたのであろう。いわゆる「西田哲学における行為・制作の論」(黒田)に示されているように。

 哲学することは、「ことばに担わされた概念」を用いて展開するほかはない。規定しようにも規定できないものを規定してしまうところに、西田の特色がある。それが彼の思索の最大の特徴である。それはたとえば「未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く同一で居る」「此の色、此音はなんであるという判断が加はらない前を言うのである」、と西田は「純粋経験」を説明している。そして、この「純粋経験」を事実や実在というものが与えられる最も直接的な「場所」であり、知というものの成り立つ最も直接的な「場所」であるとも考えている。

 また、この「純粋経験」なるものは、合目的的な宇宙全体の統一的活動と一つであり神とも同一であるとしている。「未だ主もなく客もなく、色もなく形もない純粋経験」とは、反省的思惟を自己否定面として含みどこまでも発展する体系的全体である、とも考えられている。それ故に「一般者」「場所」という規定へと転形されてゆく。

 たとえば、西田は、以下のように「意識の野(の)」における意識の活動を明らかにしてゆく。

 「我々が物事を考へる時、之を映す如き場所といふ如きのものがなければならぬ。先ず意識の野といふのをそれと考へることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならぬ。而して映された意識現象と映す意識の野とは区別せられなければならぬ。」(『西田幾太郎全集 第四巻』「働くものから見るものへ」P216)

 このことは、認識=思惟しつつある西田自身の意識を西田が観ているということであろう。そして西田が、その状態にあった己、特に思惟しつつあった自己の意識を、つまり、「純粋経験」にある自己が「思惟」したことがらを事後的にことば、概念で表現しているのである。「働くものから見るものへ」の時点では、「意識の野」は創造の「場所」として観念されることになる。

 たしかに「意識の野」そのものにおける「否定の否定」の運動(唯物論における認識=思惟作用にあたるもの)はわれわれも自覚し、意識化できる。それを対象化することもできる。しかし、「「意識野」そのものにおける「否定の否定」の運動を、西田は対象的=感性的世界における「歴史創造行為」の存在論にスライド」(黒田)させてしまうのである。「「意識野」にかかわることが同時に「歴史的世界としての場所」における「身体的行為」でもある」(黒田)としてしまうのである。〈意識を見る自己〉が唯物論的に確立できていないといってしまえば簡単なのであるが、問題は次の点にある。

 マルクスの「実践」が感性的活動であると西田は確認してはいる。しかし、西田は歴史を創造するポイエシス(制作的行為)は、これが物質的・感性的なものであるという直接性においては「ノエマ(意識作用が働きかける対象)」の側に位置づけられる。つまり、われわれのいう「実践」は意識における客観として、歴史創造も芸術作品の制作も同じポイエシスとして考えられている。さらには、これらが「弁証法的一般者」を映し表現するもの、と解釈され「意識の野のノエシス(意識の作用的側面)」をあらわすものとされている。

 こうして、場所的世界のポイエシス行為そのものと「意識の野におけるノエシスノエマ」とは違う、知覚世界において現前化したもの(表象=観念)とこの現前化を呼び起こした当のものは異なるのだが、(黒田は「位相」が異なるといっている)「現実相」として分化しないままに存在の次元において駆使される。なぜなら、西田においては、現実の場所においてある身体的自己の行為は、事実や実在として与えられる(意識における)「場所」=「現実相」と観念されているのだから。

 こうして西田は「場所においてある身体的自己の行為」を、意識内におけるノエマによって「弁証法的一般者」の表現の世界の表現行為として意味づけることになる。それゆえに、西田のいう「場所」が実際の歴史行為の現実の「場所」ではなく、もっぱら‶心のよりどころ〟を求める、学徒出陣を前にした若き学生の心に響いたのである。   

「悠久の歴史に死んで生きる」ことを説教した田辺よりも、現世からの衆生済度するものとして、多くの学生に影響を与えたといわれる所以である。

 

 私が、「絶対随順の論理」と規定した西田幾多郎の哲学。この西田幾多郎の「場所の哲学」が「一切に対する諦観」を帰結するととらえたのが田辺元である。この田辺元の「種の論理」に対して、「田辺から学ぶものがない」と切って捨てるわけにはいかないのだ。また、それは梯による「絶対有」の哲学——「絶対有」としての物質の自発自転的な自己運動過程、この自然史過程の存在論のなかに「実践的直観の契機」を探しつづけてきた梯からのみ「場所の論理」を受けつごうとするのは、片手落ちになるのである。

 梯においては、対象(客体)に対立する主観としての現実の人間意識は、ただ「絶対的な物質」を自己運動させるための一契機として、その限りで措定されているだけであり、「対象的実在の自己運動」を絶対に有ならしめるための「無」としてのみ問題にされるだけなのである。それは「絶対有としての主体的物質」が人間意識をも自己の契機として包摂した、とすることでもある。この「主体的物質」といえども「絶対有」として絶対化され実体化されており、人間実存の問題は位置づかない、といわれる所以である。

 黒田は言っている。「われわれの常套用語を用いて表現するならば、場所的=実践的立場が欠落しているがゆえに、具体的普遍性からの天下り的な解釈学的な展開に西田がおちいってることを、田辺が 指摘している、というように解釈することが可能だと。

 重ねて言うが、歴史的現実の中に「歴史的使命を自我の根底に移しいれているか否かの問題」という己自身の「革命的自覚」の問題であるということである。「マルクス主義者といえども、西田・田辺哲学から何がしか学びとるゆえん」とは、黒田が、梯・梅本が西田・田辺哲学から何を学び批判してきたのかを掴んだのか、その苦闘、精神的営為を我々もまた追体験するということだ、と思う。

                  終わり

                     2023.04.08  藤川一久