黒田寛一の哲学をわがものに その2の3

Ⅱ 「マルクス主義者といえども、西田・田辺哲学から何がしか学びとるゆえん」をわれわれはつかみとらなければならない。

 田辺元の『歴史的現実』について

  2000年発刊の『実践と場所』第一巻の執筆過程で黒田は、田辺元の『歴史的現実』を耳読した。

 黒田は、「主体性とはなにかを問い思索しつづけてきた」からこそ、「西田・田辺哲学の核心的なもの」が「内面化」しており、「梅本・梯的思弁によって濾過されたかぎりの西田・田辺哲学が、‶私のもの〟である」と内省している。同時に黒田は、田辺は「時間論の展開の正当性にもかかわらず、難破を結果せざるをえなくなっている。」 それは、「種族」という「場所を肯定する主観主義」の故である、と破産の根拠を明らかにしている。さらに「田辺元の歴史的現実の哲学は、1940年10月12日の大政翼賛会の発会式において行われた近衛文麿」の演説の「先取り」である、とその反階級性、反動性を痛烈に批判している。

 

 梅本がとらえた田辺元

 1951年5月に『ヘーゲルマルクス』を書きあげた黒田に、梅本から『ヘーゲルマルクス』を批判した手紙が寄せられた。黒田は、自己批判し、梅本が著した『人間論』についてさらに梅本から学んだものを深めてきた。その梅本は西田の限界をのりこえようとした田辺の意義を明確にし、「無の論理」を唯物論がのりこえてゆくことを主張している。

 「約言すれば田辺博士のいわれる無がその本来の姿においては何ら形而上学的実体を意味するものではなく、ただ歴史的世界成立を主体的に追求する極限に設定された純理論的概念であったことを確認しておく必要がある。この困難な領域に向かって——おそらく哲学にのこされたただ一つの固有の領域であろう——老後の博士が心血をそそがれる態度には心から敬意を表するものであるが、ただこの論理がさまざまな心理的要素をまじえ、また博士自身の階級的党派性からの歪曲によって宗教的なものと結びつき、本来論理的なものがそこで形而上学的実体に転化するかのような誤解誘発の機縁を残すところにその正体が見失われがちであり、批判はもっぱらこの面に向けられてきた。しかしこの面に関するかぎりの批判はいたって簡単である。そうした面でどのように批判されても無が提示された動機そのものは解消しつくされない。……

……種の論理それ自身としては全的にマルクシズムと一致すべきであるにもかかわず、しかも無からの要請としてこれに修正を加えることはのちに見るように逸脱なのであって、……こうした逸脱を正したのちに残るもの、つまり一切を対象化しうると信ずる唯物弁証法と、対象面に関するかぎりの有の論理としてそれにいささかの不満を持たぬとしても、しかもなお対象化しえないものを主体の底に見る立場とのずれ、そこに無がはいりこむ隙がある。この隙を唯物論がどのように処理しているかを答えぬかぎり批判は成立しないのである。」(『唯物論と主体性』「無の論理性と党派性」P42~P43)

 

 「…一度びこの逆転が行われ有の否定が絶対否定性として抽象されて存在の根源となり、それが直観的観照の場面にうつされると、元来有による有の否定が相対的有の存立の基礎づけに転化される。ことにそれが歴史的地盤から抽象された場所的直観において論理化されると、個物と個物との相互否定がすなわち無の自己限定であるという、いわゆる西田哲学の絶対矛盾的自己同一の論理になる。これに対して田辺博士が存在を社会存在として、かつそれの歴史性においてとらえ、そこに種という歴史的媒介者を導き入れたことはたしかに一つの発展である。」(同書P56)

「種は自らの否定転換をつうじて個の死復活を現成せしめ、それによって無の有的媒体となる。」(同書P57)

 

 この梅本の主張は、宗教批判および「場所の弁証法」に対する唯物論における「空隙」を明らかにし提示しただけでなく、「世界に誇りうる日本観念論哲学」内部において「批判と自己批判」をとおして発展してきた、ということを示している。それだけではない。「田辺博士が存在を社会存在として、かつそれの歴史性においてとらえ(「弁証法的一般者」ではなく(筆者))、そこに種という歴史的媒介者を導き入れたことはたしかに一つの発展である。」「種は自らの否定転換をつうじて個の死復活を現成せしめ、それによって無の有的媒体となる」という田辺の「種の論理」。この梅本が指摘した問題提起——これこそが、自らの主体性を確立せんとし、マルクス主義者たらんとしてきた黒田が格闘してきたところものでもある。日本観念論における「歴史創造行為の原理」を唯物論哲学が解決すべき課題であるとして、格闘してきたのが黒田なのである。

       つづく

黒田寛一の哲学をわがものに その2の2

 「死んで生きる」とは、黒田においてあらためて如何なるものであるのか?

 『戦後主体性論ノート』において黒田が、「「梅本理論」の問題——それは、一昨年の終わりから常に僕に迫り来った問題であり、梅本氏の問題を僕自身の問題として受けとめ、自己の無能を充分自覚しながらも格闘してきた……。 だが結局において梅本理論を克服しえないことを、ここまで書いてきて、あらためてはっきりと自覚せしめられ、絶望とそれにともなう寂莫にいかんともなしがたく、孤独の悲哀と苦悩を、このあかるいはずの新年の初頭に痛感するのみなのだ。」と書き記したのは、1950年1月5日のことである。

 その梅本理論の核心点はいかなるものであるのか? 以下の引用に、その核心が如実に言い表されていると思う。

 

 「……かれ(筆者注:フォイエルバッハ)はいう。

「人間は意識されない根底の上に、意識をもって立っている。人間は自分自身の家の中で一個の他所者(よそ者)なのだ。人間はある眩むような高所の先端におかれている——かれの下にははかるべからざる深淵がある。」(『遺された箴言』 岩波文庫ヘーゲル批判81頁)

 しかし、その方法のいかなる貧しさにもかかわらず、かれの唯物論がのこした命題、ならびに、物質の中に一つの深淵を見たかれの直観の底には、いっさいの俗流唯物者、客観主義者を凌駕するものがあったことはたしかである。この深淵をつらぬくものをみずからの主体とすることができたとき、人間は星辰をつぬく法則につらぬかれて、歴史のなかに自らの生死の問題を解決するであろう。存在の問題が一つの実践的な問題となり、生死の問題となるためには、この深淵があきらかにされねばならなぬ。宗教の根本批判もそこで完了するのである。」(梅本克己『人間論』P82~P83 「のこされた課題——深淵としての物質」)

 

 そして黒田は梅本理論について、以下のようにまとめている。

 「純粋思惟が自覚の底にひらく空虚な理論的空間」(「二 唯物論と自覚の問題」)に決意が座を占め「この決意によって、超越の空間が超越者となり絶対否定性が実在になり、非理性的なものが理性的となる」(同上)わけであるが、この「空虚な理論的空間」という思惟の抽象を絶対化して非連続的なものととして、非合理的なものとして固定化することによって、「無」を「無底」なる内面性としての自己を設定するのは、観念論の抽象以外のなにものでもないことは明らかである」「観念論の自覚のそれを追求する方向を示唆した梅本氏の問題提起の核心である。」(『戦後主体性論ノート』 二七 「自覚の論理」の問題・覚え書P402 )

 

 このような梅本の主張の核心点を黒田は、「この理論的空間とは、一口に言うならば非理性的なもの、非合理的なものであるということができよう。このような非合理的なものは有限的人間には常に付きまとう当然の「空虚」であ」る、と受けとめ、「自覚の論理は主体の意志・判断・実践にかかわる問題であるがゆえに、弁証法唯物論の判断論や実践の論理がいまだ空隙として残存せしめられている」、ととらえている。

 「死んで生きる」とは哲学における宗教批判であり、「無の哲学」の批判であり、なによりも黒田自身の主体性のありかを追求することである。

 実際に黒田は、現実的な「死の問題」が、そしてその「宗教的・哲学的問題」が、〈死んで生きる〉ということとして、「生きることの核心でなければならない」という。このような生きることを可能たらしめることが、「「死んで生きる」という決意を固めることによってであり、生きようとする意志を、無目的な目的意識性をみずからの内に決意的にうちかためることによってであろう。だがこの決意はいかにしてうちから湧きあがってくるのであろうか。それは湧きあがらせるのでなければならない」(『実践と場所』第一巻 P201)という。このような黒田における「場所の哲学」(『読書のしかた』「終わりの始めに」を参照)によってしか「空隙」は満たされないものなのであろう。

 事実、黒田によって宗教批判は深められ、「実践の弁証法」は明らかになった。

             つづく

黒田寛一の哲学をわがものに その2の1

黒田寛一の哲学をわがものに その2

Ⅰ 黒田の哲学について

 私の著した「黒田寛一の哲学をわがものに」(2020年11月18日)は、1991年ころ以降、再び黒田の哲学をわがものとするべく、異常な党派的緊張関係のなかで組織活動と長時間の疎外労働にほとんどの時間がとられる中でコツコツと学習したこと、哲学してきたことをまとめたものである。当時常任同志であったHに「1950年前後の日本の階級闘争について、黒田はいかなることを述べていたのか?」と質問したことがあった。しかし、彼に「そんなことは考えなくてよい」といわれたのだが、私の反省課題からそれているので、不満を残しながらもそのままにしていた。

 『戦後主体性論ノート』(1990年発刊)を読みはじめたのは2000年に入ってからだが、そこにも1950年ころの「歴史的現実」は書かれていない。その当時黒田は、どのような思いでいたのであろうか? 少なくとも《場の自覚》を出発点とすることを意識的に貫くのであるならば、発刊に際し1950年当時を素描であれ残しておくべきだ、という思いに私はかられる。中華人民共和国の成立、核兵器開発競争、朝鮮戦争を前にした日本の階級闘争や「コミンフォルム論評」などなどの「歴史的現実」が『実践と場所』において触れられているのだろうか? 「日本主義」といわれている箇所や、戦前の記憶を述べている箇所があるようだが……。

 私は、反スターリン主義革命的共産主義者たらんとするものとして、『実践と場所』と格闘してゆこうと決意している。そのためにはこれまでのように、黒田の哲学にかんする著書を一つひとつ読んで、学び、主体化する作業が不可欠だと思う。

 『実践と場所』第一巻「Ⅰ実践の場所 A場所の現在性 4生死の場所」では、黒田自身が歴史的社会的な日本社会という《場所》に深く内在し、そうすることによって、その場所から規定されつつ相対的に独立した社会的意識を黒田自身において再生産し、その「歴史的現実」を逆規定し自己超越する「精神作用」を明らかにしようとしているのだろうか? 彼はいう——「人間意識内における限りのない精神の否定的運動を否定することはできない」、と。これは、「歴史的社会的な被規定性を、場所的被限定性を向自化=自覚化し、そしてこの自覚を即自的前提とすることにより実践=認識主体の能動性・自己否定性が現実化されうる」という彼の考えを、さらに一歩深めようとしているからではないだろうか。われわれの革命実践や学問的研究のための「即自的な前提」をなす《場の自覚》を、『実践と場所』において貫いているのであろうと思う。しかし、以上述べたことは、私が『実践と場所』全三巻のうちの一部しか読んでいないので、直観的かつ不確かな感想にとどまるしかない。

 

 「黒田寛一の哲学をわがものに」は、2020年までの私における「黒田哲学」を対象化したものである。その後も少しずつであるが、黒田の著書を読み考えてきた。まずは、それについて少し書いてみようと思う。

 

「死んで生きる」ということについて

 このことば——「死んで生きる」ということばを黒田が言った、つまりそのような言語表現を行った、ということを、私は聞いていない。『平和の創造とは何か』のP83において、Vに「……ハンガリー事件に直面して、彼は死んだのだ」「ハンガリー労働者の魂が彼にのりうつったのだ。こうして、彼は蘇った、死んで生きたのだ、うむ、彼は死んで生きたのだなあ。」と語らせている。さらに、阿蘇平八は「1956年——《生死の場所》」において「〈生ける屍〉の生き方」について『実践と場所』第一巻の「生死の場所」の一部をとりあげ論じている。かれは、『平和の創造とは何か』におけるVのように、黒田がハンガリー事件において共産主義者の主体性を貫徹したことに限定して論じている。さらに彼は、「決意は沸きあがらせるいがいにない——苦悩のどんづまりにおいては結局のところ、このようなものであろう。何の理由もてがかりも見いだせない〈どん底〉における苦悩、決意する以外に、これを突き破ることはできないそれ、「堂々めぐりの思索」とはそのようなものをさすのであろう。」と、黒田の強靭な精神活動に光を当てている。そこから私が受けとめることができるのは、この『実践と場所』第一巻の「4 生死の場所」は「5 実践的立場」へと続くものとして《場の自覚》についてわれわれの革命実践や学問的研究のための「即自的な前提」をなす「実践的立場」を確立すべきものを解明しているのだと思う。われわれは有限な物質的人間存在であるが、われわれが自己の有限性を自覚しつつ行為的現在の場所において歴史を創造する主体となるにはいかにして可能であるのか。まさにそれを、黒田が主体的に明らかにすることをめざしたものとしてわれわれは受けとめなければならないのではないだろうか。「何の理由もてがかりも見いだせない〈どん底〉における苦悩、決意する以外に、これを突き破ることはできないそれ、「堂々めぐりの思索」」——これこそは、黒田自身が、彼自身の歴史的に規定された「絶望の意識」——その意識の底に開く超次元的な無限の時空間的世界の、形而上の世界の限りない否定運動を知覚し、それを絶対的超越者へ自己疎外し拝跪することなく、いかにして歴史の創造主体たりうるのか、と思索していることを言語表現したのだ、と私は思う。なんと強靭な精神力であろうか。

 生きるということは、「絶望」「どん底」からはいあがり、何になるかということである。つまり、「死んで生きる」ということは歴史創造主体たらんとする黒田そのものである、ということなのではないか。

                           つづく

 

訣別宣言 その4       藤川一久

4 イデオロギー的根拠

 椿原は、「ある問題の打開をめぐる思想闘争において、批判するものは‶何でもあり〟ではあってはならない。その思想闘争において新たな問題が生みだされた場合は、いったん論議を止め、……」との教訓を「思想闘争の壁」から導き出し理論化している。  

 なんということか!?

 「革命的共産主義者としての死」を意味するような組織=思想問題を引きおこした椿原。これを上っ面だけの「反省文」だけで乗り切り、居直り続けている椿原その人が、何をかいわんやである。今回の思想闘争において、「論議を止める」ほどの思想闘争における新たな問題など、どこにもありはしない。ただ一人椿原だけが、「詐欺だ」という判断に立ち得ていない、という己自身に、「目を覚ませ」という厳しい思想闘争を展開してきただけである。ところが、椿原は自己保身から、批判を拒絶し、「耳を塞ぎ壁をつくって」批判から逃げようとしたばかりか、自己肯定のための反撃を開始したということではないか。そのための根拠を同志黒田の「思想闘争の壁」からの「教訓」などで基礎付けることなど許されるものではない。 私たちは、椿原の詐欺の餌食となった問題の反省論議を通じて組織をさらに強化しようと問題を掘り下げてきた。その過程で己の失敗を隠蔽したり、居直ったりするだけでなく、批判している者に対して批判者の「問題」にすり替えるような組織成員として恥ずかしい榊原の思想性・組織性・人間性を問題にしているのだ。

a 自らの自己肯定の哲学からの解釈

 椿原は、「自己にあらざる他者において自己を見る」ことへの肉体的反発を何度か示していた。この唯物論的反省(自覚)の論理などは無縁なのだ。椿原において、他者における自己は、つまり他者に映じた椿原自身は、「誰かに影響された」「狂っている」「歪んでいる」ところの、他者に映じた椿原であり、さらには、「バイアス」がかかった、「捏造」され「でっち上げ」された椿原なのであって、真実の椿原は己の内にある椿原である、という固い確信の持ち主である、ということである。

 これでは、自己変革などできるわけがない。自己肯定そのものだ。

b 松代の哲学——その限界

 松代は、なぜにこのような椿原を擁護し、内部思想闘争の破壊に手を貸すのであろうか。それを突き止めるためには、彼の哲学がいかなるものであるのかを検討しなければならない。

 松代は、西田・梯・黒田における「場所」を批判的に受け継ぐ形で、自己変革を、実践主体の、《場所》に於いてある己の内面にうずく衝動から存在論的に基礎づけている。 松代は、西田への批判を媒介として、「場所的現在において・私たち人間主体が・おのれ自身を・歴史創造の主体へと変革する、この自己変革の論理を解明する」と主張する。

 「この歴史的な社会的現実を切り拓き突破するためには、私たちは、この現実を変革する主体たりうるものへと自己を変革しなければならない。」と現代における労働者の革命的自覚を通り越して、実践主体の実践的能力の問題へと論点を移行させてしまう。 「だから私たちは、おのれ自身の分析=思惟能力を・論理的=理論的な力を・体得し高めなければならないのであり、〈みずからの実践的=組織的な諸能力〉をきたえあげていかなければならない。私たちは自己の〈思想的・実践的・組織的・人間的の質〉を変革していくのでなければならない。」 「実践的=組織的な諸能力」とは「思想的・実践的・組織的・人間的の質」であり、実践の指針が的確か、強靭なのかは「実践的=組織的な諸能力に限界づけられる」のであり、だから私たちは自己変革が必要なのだと、「自己変革」を基礎づける。

「おのれのあらゆる諸能力をたかめ、実践=認識主体としてのおのれの資質、組織成員としてのおのれの資質をつくりかえていくために、自己を訓練し鍛錬していかねばならない」と。

「このような自己変革の闘いこそが、おのれがこの瞬間・この瞬間に・死んで生きる〈こととなる〉」と解釈を付け加えてもいる。

 これは、《場所》においてある実践主体の問題からの存在論的定式化である。

 実践的=組織的能力を思想的・実践的・組織的・人間的の質と等値し、実践的=組織的能力の限界は思想的・実践的・組織的・人間的の質の限界だから自己変革の闘いが必要だ、というのだ。 しかし、このような松代の定式化した「自己変革」論は、「日々不断にかつ永久に、自らを破砕し、そして蘇生させる」(小金井堤 桜子)という言葉に貫かれている同志黒田の思想・哲学と同じものなのだろうか? 何故に松代は、椿原の自己過信と彼の内面を支配している自己保身を見抜くことができず、「革マル派」への自己肯定をよりどころにした反抗についても肯定してしまうのだろうか。

 彼は、組織成員がこの資本制社会に実存していること。それゆえに様々なブルジョア的汚物にまとわりつかれている、という厳しい現実から出発していない。 未だ変革されざる、拝金主義、エリート主義、道徳主義、自尊心が強く過信の持ち主、妬みやライバル主義、等々を抱えている組織成員を出発点にしていないのである。それらの諸傾向を持つ組織成員は、自らの実践的=組織的な諸能力を鈍らせ、限界づける。組織づくりの障害となる。そして、それを克服するには、己を、己の内面を、見ることができなければできない。

 松代は、他者の「感情や気持ちや苦悩丸ごと」とらえ、考えようとしてきた。しかし、感情や、気持ちを惹起させる「己の内なる非合理的なもの」を見ることができない。そのことは、彼が「己自身の分析=思惟能力を・論理的=理論的な力を・体得し高めること」、「みずからの実践的=組織的な諸能力をきたえあげ」、「自己の思想的・実践的・組織的・人間的の質を変革していく」ということに満足し、そこに解消できない領域がある、ということの自覚が弱いということを示している。確かに松代は、感情や気持ちや苦悩を丸ごととらえることができなかった己を自覚しのりこえようとしてきた。しかし、「自己に欠損している感性的側面(感情・心情・情念・心といわれるもの)の中に、N(=任侠気質の持ち主)が住み込んでしまっている」(同志黒田)という、「己の内なる非合理的なもの」を深くえぐりだし、そのような己を自覚することができていないのだ。

 梅本に対する松代の評価は、そのことを雄弁に語っている。

「被限定を能限定に転ずる変革的実践の決意成立の場面」を明らかにすることを提起した梅本にたいし、 すでに「場所=物質的世界をうちやぶり切り拓く、と〈意志している私たち〉がどうするのか」という答えからアプローチしている。

 これでは、梅本の問題提起の何もわかっていないではないか。

「人間の論理学」ということについて、深く「哲学」(同志黒田)したことがないのであろう。

「行為的現在の場所においてあることの自覚こそが、われわれを実践へ、変革的実践へと駆りたてるのである。《いま・ここ》における「報いられることを期待することなき献身」的な実践が、行為的現在の場所の非連続を破って、この非連続を「次の今」に連続させることになる」(同志黒田)のではないだろうか。このように語る同志黒田は、「有限な人間的物質的存在が、その意識の底にひらく超次元的な無限の時空的世界」が存在し、「この形而上の世界の限りのない否定的運動がつくりだすところのもの」の存在を自覚している、ということが前提とされているのだ。

 革命の必然性を認識していた共産党員がなぜ「転向」したのか? 今日でいうならば、あまたの革マル派同盟員がダウンし逃亡したのは、なぜか?

 「場所=物質的世界をうちやぶり切り拓く、と意志している」ものたちが、その意志を捨てたのは何故なのであろうか?

 いや、労働者はいかにして革命的共産主義者へと自己変革してゆくのか? 組織成員となった労働者、革命的自覚をかちとった労働者が組織成員としてふさわしい思想性、組織性、人間性をたえず変革してゆくその場合でも、同志黒田の「内なるものと外なるものとの根底的な永久革命」を日々実践するのだ。私たちは、そのように同志黒田から教わり「内なるものと外なるものとの根底的な永久革命」の闘いを行ってきたではないか。

 最後に、黒田における「場所の論理」とはいったい如何なるものなのか?

 彼に語ってもらう。

 『読書のしかた』「終りの始めに」(同志黒田)より。

 「「疎外」とは私であり、私とは「疎外」なのである。あるいは、「疎外」はこの私のどん底なのだ。このどん底からはいあがることを私に決断せしめたところのもの、それは若きマルクスであった。疎外態としての私のこの自覚は、同時にどん底をつきぬけてプロレタリアの疎外された実存につきあたり、まじりあい、合一化された。これが私の出発点であった。それだけでなく、つねに私のあらゆる思索と実践がそこから生まれ、そこへ回帰してゆく原点でもあるのだ。……」

「……経済的どん底にせよ人間存在そのもののどん底にせよ、所詮、どん底と面面相対したことがかつて一度もない落ぶれた学生活動家もどきの哲学者なるものとか代々木中央の小河童とかが、……私を葬り去ったつもりになっているのは、まさに笑止千万というべきだ。……」

 「「人間はなんであり、なんであるべきか」という古くて新しいこの問いを問いつづけることのなかに、またそれをとおして、他からは侵害されることも破壊されることも決してないこの私の実存を確かなものとし、そして革命実践へ身を投じてきたし、また今後もそうであろう。いや、そうでなければならない。たえず「人間はなんであり、なんであるべきか」と問いつづけることは、どん底人間がなにに「なる」かということを自己にむかって問いかけることにほかならず、それへの発条を永久的におのれ自身の内部に創りあげ、かつ実現することにほかならない。一切の俗物的批評とは異なる次元において、私のこの拠点はつらぬきとおされていくであろう。——わが大井正よ、西田=田辺哲学を唯物論的に改作することを探究してきた梯明秀の哲学から私が学びとった「場所の論理」とは、まさにこのようなものなのだ。」

 松代の人間変革という考えかたは、このような同志黒田の「内なるものと外なるものとの根底的な永久革命」とは異質なものである、と言わざるを得ない。

訣別宣言 その3       藤川一久

3 半年にわたる組織問題をめぐる内部思想闘争で露呈した自己保身と居直り  

 私たちは半年近くにわたって、プロレタリアの自己解放を目指す前衛党とは思えない「組織」問題の解決のために論議を積み重ねてきた。そこで明らかになったのは、椿原の自己保身に満ちた居直りと批判者への攻撃であった。その一端を紹介する。 9月8日の組織会議において、5・11の組織会議で顕になった椿原へ同志谷風の認識・評価と思われることに「同じように感じた」と柿野は発言した。(既に書いてあるが、椿原は5・11の論議を「記憶なし」と平然と悪びれることもなく「反省」文に書き連ねたのであった。)椿原は間髪を入れず「あんたは(谷風に?)影響されているからだ」「あんたが狂っているからだ」と矢継ぎ早に柿野を罵倒した。柿野は「そんなことない」と反論すると、椿原は「帰ったら論議しよう」と恫喝した。こうして、柿野は自分の言いたいことを言えなくなる。 このように、椿原は自分の主張と相反するとみると、その発言を封殺し、論議そのものを混乱させ、重要な論議をつぶしたのである。さらに重要なことは、柿野の主張したことは、同志谷風と松代との間での、〔椿原が詐欺にあったと自覚したかどうか〕、という評価の対立を止揚する上で重要な発言であったのだ、そのような組織的に深めてゆくべき論議をつぶしたのである。そして松代は、もはや反スターリニズム革命的共産主義とは無縁となった椿原のディベートになんら危機感をもたない態度を示したのだ。  

a 4・16チラシ撒きの問題について

 この問題は4・24に私が会議の議題として提起したが、時間切れで先延ばしになったものである。あえて、ここで明らかにするのは、椿原がこの日の自分の実践を省みず、自分の問題意識からこの日の取り組みの一部だけを切り取り、同志谷風を攻撃するために事実の「捏造」問題として批判してきたからである。詳しい内容は略すが、この問題の主要な事柄は、椿原のこの日の行為によって、4・16の同志谷風と柿野のチラシ撒きを権力、「革マル派」、集会実行委に晒した、ということだ。そのために、権力、あるいは「革マル派」と思われる男に柿野は付け狙われたのである。その上、「革マル派」に機関紙上で暴露されてしまうというおまけまでついた。 〈この日の取り組みについては、椿原はタッチしないはず。そもそも4・16の会場には出席しない予定であった。しかし、30分も集会開始時間を間違えた〉うえで会場に登場し、喫茶店で待機しつつ行動予定を打ち合わせていた同志谷風、柿野に急がせたばかりか、スカスカの会場の中央を歩いてきて堂々と二人に話しかけたのだ。党派的緊張関係の中での「ビラを渡した人間と、もらった人間しかわからないようにササっと、周囲の人間には何事もなかったかのようにまくように」する、という高度な闘いは、椿原の行為によって破産した。権力との、党派的の緊張感が希薄化し、組織性がずっこけている、平和ボケした行為である、というほかはない。対権力、党派的緊張関係の中の会場内での「チラシ捲き」における、椿原のこのような反組織的な行為を隠蔽し、自らの行為を正当化するために、椿原は同志谷風による「捏造」問題をこしらえ、同志谷風を叩こうとしてきたのだ。 これは椿原の自己保身を動機とした居直りである。そしてそのために使った政治技術である。椿原はそのような特技を直そうとはしないのである。胸を張って堂々とその特技を行使するのである。

 b 椿原のよって立つもの、自己肯定の哲学

 しかし、なぜにこれほどまでにも、同志の批判を蹴飛ばすことができるのだろうか? 確信に満ちて蹴飛ばすことができるのだろうか? 批判してくる相手を叩きつぶすかのように批判者の問題を作り上げ攻撃できるのであろうか? 「深刻な問題を抱えて苦悶している……相手にとっては危機に追い込むことにすらなりかねないことはご承知いただきたい」(「相続問題についての私の反省(3) Tu0709」)と椿原は書いている。「相手によっては」と自分ではないかのように書いてはあるが、「マインドコントロール」といわれて混乱し反省ができなくなった己の弱さ、「このみすぼらしい己」を見つめ断固としてのりこえるとは書いていない。そういうふうに考えることはないのである。批判者の思想闘争の問題として注意を促すというのだ。〈自己変革という考えが根付いていない、いや無縁である、と言わざるを得ない〉。

 そのまえの段落には「錯乱した断定にもとづいて、私に対する処分が行われた。……私はそれを受け入れることができず、逃亡し、復帰するときには、二度とあんなことはあってはならない、という深い確信を持った」と記している。「錯乱した断定」かどうかはB’が分からないので判断を留保せざるをえない。したがって、処分が妥当であったのか不当であったのかも判断ができない。しかし、椿原が「逃亡し、復帰」したのは事実である。 だが、「逃亡」したという自らの実践について反省し、組織的に区切りをつけた、ということを私は椿原から聞いたことが無い。「あんなことはあってはならない」という決意の大きさだけが、主張されそれが前面に出て「革マル派」へ攻撃しているだけである。だが、「逃亡」したこと「復帰」したことは単なる事実で済ますわけにはいかない問題である。すべては、処分は不当だと相手「革マル派」官僚が悪い、問題であると考え、逃亡した自分を不問にし、その質を、その限界を、どのようにのりこえてきたのか、という肝心なことが欠落しているのだ。椿原の文章には、このような自己変革の苦闘というものが書かれていないのである。 さらに椿原は数年前、「○○大学は三流大学だ」と同じ○○大学出身の同志谷風の前で語った。このことについて同志谷風は文書で批判した。椿原は「大学出を鼻にかけている連中がいるが、たかが××大学だろ。東大を出ていないくせに、と鼻をへし折ってきた、そういうイデ闘がつい出てしまった」、とびっくりするような言辞を弄したのだ。内なるエリート主義が何ら変革されていないのである。かつて「革マル派」時代に問われてきた数々の否定的傾向のどれ一つとして自己変革してこなかったのだ。 自己変革とは無縁であるということは、「革マル派」時代から一貫しているのだ、と言わざるを得ない。私は、そのことに気が付くのが遅かった。本当に遅かった。

 詐欺問題で解ってきた様々なかれの居直り、自己保身からとらえ返すと彼の実践のすべてが氷解する。それは単なる「癖」「特技」なのではない。筋金入りの自己肯定の哲学なのだ。私たちは、「……プロレタリア的諸個人の・前衛組織を溶鉱炉とする・人間変革の過程……」(『組織論序説』)という同志黒田の革命論を捨てた「革マル派」と訣別してそれをのりこえた党を創ろうとしてきた。既に4年が経つ。椿原は、その間に過去に問われていた自己の否定的傾向をさらに純化し徹底化させてしまった。

 私は、そう言わざるを得ない。悔まれてならない。

訣別宣言 その2       藤川一久

2 組織の最大の危機——組織問題

 今回の「探究派」の最大の危機は、NO.1およびNO.2がともに詐欺の餌食となった、ということだ。それを見抜けなった私たちの故に一時的ではあれ、組織丸ごと詐欺にあったのである。 Aが世間で呼称されている「バークレイズ銀行の名を利用した、国際遺産相続詐欺」集団のフィシング詐欺に引っかかった。このAが22億円の遺産相続金を得るために必要な金を融資してくれと椿原に願い出た。椿原は「信憑性がある」と判断し、融資することを決めた。これが、ことの発端である。 そして椿原は〈「金がなければできないことも、あればできることもある」と金に目がくらみ、「金銭的制約があって解決できないでいる問題」のためにAから「1億円」「いやそれ以上をカンパさせる」〉と妄想しそれを組織会議に提起した。前衛党の組織原則を投げ捨てて。さらに椿原は、「ただ金が欲しいだけじゃないか!」という同志谷風の怒りを込めた批判に対し「そうだよ、それのどこが悪い」と居直った。この居直りの中身こそは、マルクス主義・なかんずくマルクス経済学の何たるか、ということの無知をさらけ出したものではないか。いやいや労働力商品たるの自覚、賃金奴隷からの自己解放とは無縁であることを物語っているではないか!! 椿原はそれほど思想が崩壊しているのだ。

 松代は「わからないことがあるが、これによって、〈引き出せるようになるかどうかで白か黒かを判断する〉」としていた。彼は、「すでに詐欺集団の術策にのってしまっていた」(藤川)のである。‶オレオレ詐欺にあって銀行に振り込みをしようとしている人を前にして、詐欺かどうかを確かめるために、一度振り込んで相手の次の出方を見よう〟という能天気な判断をしたのである。

 さらに、前述の椿原が提起した組織会議で、相続自体が夢物語だと感じた同志谷風は「相続に関する書類はないのですか」と質問した。椿原は「そんなものあるわけがない。電子決済の時代だ」(得意のディベート方式による切り返し)と答え、松代は「そうだね」と相槌を打ったのである。 確かに同志谷風は詐欺の可能性があるから、質問したわけではない。椿原は、当時唯一であろうところのAが正当な相続人であることを示す「宣誓供述書」の存在を否定するような発言をし、松代が同意したのだ。しかし、なんと! この「宣誓供述書」こそは、詐欺グループがでっち上げた偽造文書であったのである。私たち、同志谷風と藤川において、一目でわかるこの偽造された「宣誓供述書」を椿原の「あー言えばこういう」式のディベートとそれに相槌を打った松代によって隠蔽されてしまった。二人は、出発点における重要な過ちに関していまだに口をふさいだままである。さらに、2021年12月の段階で、Aがフィッシングされていた事実をも半年以上隠ぺいしていたのである。

 その後の反省論議で、椿原は同志の批判に「耳をふさぎ、壁をつくり」、反省のための会議への参加をも拒絶したのである。さらに、椿原はようやく提出した「反省文」において、「5・11について、記憶なし」と恥ずかしげもなく居直り、同志の誠実な且つ懸命な批判を蹴飛ばした。驚くべきは、松代はこのような椿原を「問題意識が違えば覚えていないこともある」と擁護したのである。いずれにせよ椿原は、みずからの拝金主義、それによる判断の狂い、さらには自己保身と居直りのゆえに、共産主義者として死んだのである。 「探究派」は、この時点でもはや組織の体をなしていない。やり直さなければならなったのである。解体的再創造をやらねばならなかったのである。

訣別宣言 その1       藤川一久

訣別宣言

 はじめに

 私たちは、2022年10月8日「探究派」に対し訣別宣言文を突きつけた。その後現在に至るまで、彼らからの自己批判も反批判もない。2023年の開けを期して訣別宣言文を加筆し、すべての労働者階級にこれを明らかにする。その趣旨は、「探究派」なる集団は、労働者階級の前衛党を名乗ることができるような代物ではないということである。労働者階級の自己解放に責任を持つと考えている私たちは、多くの労働者諸君が官僚主義の集団と化した彼らの実態と対決することを願ってやまない。

1 官僚主義を顕在化した集団

 わが同志谷風は、「革共同第四次分裂宣言」への批判を行った。以下、その内容を明らかにする。

【2022.09.23     

 谷風 「宣言」(案)について  疑問に思ったことなどについて、少しずつ書いていこうと思う。

①「新たな戦乱の時代を、プロレタリア革命の第二世紀へ!」(p.1)について

 ①全体のタイトルは、「…〈革命的前衛党の創造〉に邁進しよう!」とあるが、この章の最後の部分は「〈革命的労働党の建設〉に邁進することを…」となっている。  *注〈 〉内は著者の強調。以下同じ。 「前衛党」を「労働党」と変え、「創造」を「建設」になぜ変えたのかについてはわからないが、この最後の部分は、タイトルと同じ表現にした方がよいのではないか、と思う。

 ②この章では、本文の2行目に「ウクライナへの軍事侵攻」そして「侵攻したロシア軍」と表現され、6行目では「ロシアのウクライナ侵略」と表現されている。2月24日付けのアメーバブログでは、「軍事侵略」と表現されている。辞書によれば、「侵攻」は敵やその拠点を攻撃することのみを表し、「侵略」は攻撃したうえでその拠点や陣地を奪い取ることを意味する、とある。ここは、帝国主義的侵略のことを言っているところだと思うので、「侵攻」は「侵略」にした方が良いのではないだろうか、と思う。

 ③本文の4行目の「スターリン主義から転化した」は、「スターリン主義官僚専制国家から転化した」と表現すべきではないだろうか。

 ④帝国主義の分類を「旧来型」と「新型」としているが、旧来型はわかるが、新型とすると「転化」が抜けてしまうように思う。アメーバブログでは、「在来型」と「転化型」としている。

 ⑤13行目の「ウクライナ問題」という表現が、気になった。「ウクライナ問題」と表現してしまうと、どのような問題なのかがわからない。ここは、そのことがわかるような展開がほしいと思う。たとえば、〔プーチンロシア帝国主義国家によるウクライナへの軍事侵略に対して、欧米帝国主義国家からの経済的・軍事的援助を受けたゼレンスキー政権による「国家総動員体制」をつくり出しての反抗〕とかいうようにである。

 ⑥本文13行目に「輝かしい闘いを展開してきたかつての革マル派」とあるが、ここに〔〈反帝国主義反スターリン主義〉を掲げて果敢に闘ってきた〕と私たちの世界革命戦略の正統性を示すような表現にした方が良いのではないかと思う。なにが「輝かしい」のかを記したほうが良いと思う。  ※また、考えてみます。】

 このような同志谷風の「革共同第四次分裂宣言」への批判に対して、椿原は次のような回答をしてきた。

「呆れ返っている。よくもこんなことで頑張るものだ。一番わかりやすいかと思うので、一つだけ、返答する。私が「侵攻」という語と、「侵略」という語を使い分けていること、主語ないし実体で区別していることをどう思うか。後は推して知るべし。対象の主体的分析、ということについて考えてみてはどうか。(椿原)」

 あきれ返ったのは私である。 自らが書いた「宣言文」について、批判をきちんとうけとめ、その限界を吟味し、そのうえで反論すべきところを批判するという姿勢は、椿原には全くない。いや、椿原の理論=思想水準の本質が突かれたというべきか。そういう時に自然に本能的に出る、「あー言えばこういう式の切り返し」で回答してきた、そういう代物だからである。ヘリクツでしかない。 この「宣言文」を書いた椿原は、同志谷風によって次のような問題が突きつけられたのである。

 批判文①の冒頭の内容について

 数カ月前には、金に目がくらみ前衛党の労働者性を実体的に確保し、保証するということなど、これまで確認してきた原則を没却し放擲したのが椿原であったのではないか。「革命的共産主義者としての死」を意味するような組織問題を引き起こし、居直り続けているのは椿原その人ではないか。私たちは、前衛主義者でもなければ、反前衛主義者でもない。同志黒田は、レーニンの組織論の限界を止揚した新たな前衛党組織論を構築した。それを受け継ぎ、組織現実論を現代的に適用しているのが私たちである。椿原はそのような事柄を忘れたかのような言辞を弄し、実践しようとしたではないか。そのような者が、突然、前衛党、労働者党などと書き連ねたのである。まずは、そのような自らを省みてはどうか? 榊原は、労働者階級の前衛党とはいかなるものであるのか? 一から学びなおすことが問われていたのではないのか?

 ②について

 この宣言で、椿原は軍事侵略を「軍事侵攻」という表現で、冒頭から文章を展開している。これはプーチン侵略戦争を免罪しているかのような叙述ではないか。多くのブルジョアジャーナリズムが「軍事侵攻」としか言わないのは何故なのか? 私たちはどのように規定するのかにその革命性が滲み出るのだ。しかも天空からロシア軍とウクライナ軍が単に軍事行動を展開し、激突している、と眺め渡しているかのようだ。椿原は明らかに政治的感覚の鈍磨と画歴史的事態への肉迫の弱さを示しているではないか。現実世界に内在していないということだ。

 ③、④,⑤について

 同志谷風の主張のまさにその通り。説明をする必要はない。 この批判こそは、椿原が組織的地位に胡坐をかいて切磋琢磨することを怠ったということを鮮やかに示している。

 ⑥この指摘は極めて重要である。

 この間の「革マル派」への批判の重要な一つであるからである。「革マル派」において「反スタ」の内容が狂っているという極めて重要な問題をイデオロギー闘争として展開してきたではないか。 いや、いったい椿原は「綱領的文書」をどれだけ主体化してきたのか? そういうところまで己を省みたらどうか?  私は、榊原の反論のしかたに対しては、すでに何度も批判を文書にて提出している。しかし、彼は何を批判されているのかを全然うけとめないのである。「あー言えば、こういう」類の切り返しを常套手段としている。私たちの「思想闘争の論理と倫理」とは全く相いれない、単なるディベートの組織への持ち込んでいるということに対して何らの否定感もない。そして、根底にある自己肯定の哲学と自己絶対化が如実にでている。 これらを組織論的な観点からみると、椿原は官僚主義を顕在化した、といえる。そして松代は、そのことに何の危機感をも表明しないばかりか、擁護さえしている。 あきらかに「探究派」は、官僚主義の集団と化した。 このような「探究派」という集団は、内なるものと外なるものとの根底的な永久革命を志向する、わが反スターリニズム革命的共産主義者が目指す党とは無縁なものである。

 おまけ

  現在の「探究派」集団の本質を表すエピソードを一つ。 黒江は、自らが属する組合の方針案に「修正案」と称するものを提出した。ビビリズムを本性としている彼は、執行委員会では何も発言できなかった。委員長から「大会議案(案)への意見を受け付けますのでなにかあればおくってください」という発言をうけて、黒江は、〈朱入れ添削文〉を委員長に送り付けたのである。組織の内・外の区別もなく、社会人として非常識極まりない、この無知。この恥知らずの行為に対し、椿原は「ほかに方法はなかった」という。  

 労働運動とは、無縁な「官僚」と化した存在というほかないであろう。