黒田寛一の哲学をわがものに その2の3

Ⅱ 「マルクス主義者といえども、西田・田辺哲学から何がしか学びとるゆえん」をわれわれはつかみとらなければならない。

 田辺元の『歴史的現実』について

  2000年発刊の『実践と場所』第一巻の執筆過程で黒田は、田辺元の『歴史的現実』を耳読した。

 黒田は、「主体性とはなにかを問い思索しつづけてきた」からこそ、「西田・田辺哲学の核心的なもの」が「内面化」しており、「梅本・梯的思弁によって濾過されたかぎりの西田・田辺哲学が、‶私のもの〟である」と内省している。同時に黒田は、田辺は「時間論の展開の正当性にもかかわらず、難破を結果せざるをえなくなっている。」 それは、「種族」という「場所を肯定する主観主義」の故である、と破産の根拠を明らかにしている。さらに「田辺元の歴史的現実の哲学は、1940年10月12日の大政翼賛会の発会式において行われた近衛文麿」の演説の「先取り」である、とその反階級性、反動性を痛烈に批判している。

 

 梅本がとらえた田辺元

 1951年5月に『ヘーゲルマルクス』を書きあげた黒田に、梅本から『ヘーゲルマルクス』を批判した手紙が寄せられた。黒田は、自己批判し、梅本が著した『人間論』についてさらに梅本から学んだものを深めてきた。その梅本は西田の限界をのりこえようとした田辺の意義を明確にし、「無の論理」を唯物論がのりこえてゆくことを主張している。

 「約言すれば田辺博士のいわれる無がその本来の姿においては何ら形而上学的実体を意味するものではなく、ただ歴史的世界成立を主体的に追求する極限に設定された純理論的概念であったことを確認しておく必要がある。この困難な領域に向かって——おそらく哲学にのこされたただ一つの固有の領域であろう——老後の博士が心血をそそがれる態度には心から敬意を表するものであるが、ただこの論理がさまざまな心理的要素をまじえ、また博士自身の階級的党派性からの歪曲によって宗教的なものと結びつき、本来論理的なものがそこで形而上学的実体に転化するかのような誤解誘発の機縁を残すところにその正体が見失われがちであり、批判はもっぱらこの面に向けられてきた。しかしこの面に関するかぎりの批判はいたって簡単である。そうした面でどのように批判されても無が提示された動機そのものは解消しつくされない。……

……種の論理それ自身としては全的にマルクシズムと一致すべきであるにもかかわず、しかも無からの要請としてこれに修正を加えることはのちに見るように逸脱なのであって、……こうした逸脱を正したのちに残るもの、つまり一切を対象化しうると信ずる唯物弁証法と、対象面に関するかぎりの有の論理としてそれにいささかの不満を持たぬとしても、しかもなお対象化しえないものを主体の底に見る立場とのずれ、そこに無がはいりこむ隙がある。この隙を唯物論がどのように処理しているかを答えぬかぎり批判は成立しないのである。」(『唯物論と主体性』「無の論理性と党派性」P42~P43)

 

 「…一度びこの逆転が行われ有の否定が絶対否定性として抽象されて存在の根源となり、それが直観的観照の場面にうつされると、元来有による有の否定が相対的有の存立の基礎づけに転化される。ことにそれが歴史的地盤から抽象された場所的直観において論理化されると、個物と個物との相互否定がすなわち無の自己限定であるという、いわゆる西田哲学の絶対矛盾的自己同一の論理になる。これに対して田辺博士が存在を社会存在として、かつそれの歴史性においてとらえ、そこに種という歴史的媒介者を導き入れたことはたしかに一つの発展である。」(同書P56)

「種は自らの否定転換をつうじて個の死復活を現成せしめ、それによって無の有的媒体となる。」(同書P57)

 

 この梅本の主張は、宗教批判および「場所の弁証法」に対する唯物論における「空隙」を明らかにし提示しただけでなく、「世界に誇りうる日本観念論哲学」内部において「批判と自己批判」をとおして発展してきた、ということを示している。それだけではない。「田辺博士が存在を社会存在として、かつそれの歴史性においてとらえ(「弁証法的一般者」ではなく(筆者))、そこに種という歴史的媒介者を導き入れたことはたしかに一つの発展である。」「種は自らの否定転換をつうじて個の死復活を現成せしめ、それによって無の有的媒体となる」という田辺の「種の論理」。この梅本が指摘した問題提起——これこそが、自らの主体性を確立せんとし、マルクス主義者たらんとしてきた黒田が格闘してきたところものでもある。日本観念論における「歴史創造行為の原理」を唯物論哲学が解決すべき課題であるとして、格闘してきたのが黒田なのである。

       つづく