労働力商品の自覚

 自分の労働力を商品として売らざるを得ない、ということが解ると「搾取」、すなわち資本家がなぜ富を独占し蓄積できるのか、また、合法的に搾取が可能ならしめる賃金制度の欺瞞性についてもわかってきます。――それらのことは今後学習するとして、労働力商品について私が考えてきたことを述べてみようと思います。

多くの労働者は自分が労働力商品であるなどと考えていません。コンピューターソフトの開発、サービス業などの労働者、ショップの店員など労働者の存在形態が多様化し、暗い、キツイという労働のイメージも薄れ、自分は、自由に働いていると、錯覚しているかのような状況のようです。また、種々の職種、年齢、雇用形態が広く存在しています。彼らは、正規から非正規へ、非正規から首切りへの恐怖を感じながらストレスと体を壊してまで働かざるを得ません。常に生存の危機と隣り合わせの生活を強いられているのです。

 そのような彼らは生きてゆくための諸手段を買うための貨幣(おかね)を手に入れるためには、そのかわりに自己の労働を譲渡するほかないと確信しています。それが当たり前だと思い込んでいるのです。

 私もかつてそうであった。賃上げ闘争も少しでも良い生活ができるようにと闘ってきた。働くこと、生きること、生きるために働いているのか、働くために生きているのか、など考えたこともありませんでした。

「賃金制度を撤廃しなくては駄目なんだ」という先輩の労働者のひと言を契機に、私は、生きてゆくために、自分の労働を買い手に売り渡すことの意味、売り渡しの結果受け取る賃金なるものは何なのか、について考えるようになりました。『資本論』などを読んで私は、実は私が売っているのは労働ではなく、労働力を譲渡しているということを自覚しました。自己の唯一の財産である労働力を、資本家に譲渡しなけれなならないのは、一切の生活手段、生産手段が生産した私から疎外され、資本家の所有物になっているからだ、ということを掴み取ることができたのです。

「根源的蓄積過程」の学習は私の価値観を一変させました。

 農民からの国家権力を背景とした土地の暴力的奪取は近代ブルジョワ的所有への横奪的転化と言われていますが、この過程は封建的隷従からの農民の解放であると同時に、これまで封建制度によって与えられていた彼らの生存上のあらゆる保障が奪われ、かくして彼ら自身が労働力の販売者へと転落せしめられた、という「自由」なる賃労働者の創出の過程であることも学びました。この過程は労働者が焼印を推され、鞭打ちと絞首刑によってなされてきた過程です。私が生きるためには、労働力を売るしか他になく、そしてその反面に生活手段、生産手段が資本として集中という事実が厳然としてある、ということには歴史的根拠があったのです。

こうして、賃労働(労働力商品)なしには剰余価値はの生産はありえず、したがって資本と資本家は存在しない」、「賃労働者はそれゆえ、資本形成の必然的な条件であり、資本生産の不変の必然的な前提である」(『直接的生産過程の諸結果』)という資本制生産の本質も掴み取ることができました。

 

プロレタリアート私有財産の否定を要求するとき~~社会の否定的帰結としてのプロレタリアートのうちに体現されているものを、社会の原理に高めているにすぎない」(「ヘーゲル法哲学批判序論」)について考えたこと。このことについては、後程。

2014.05.29