斎藤のいわゆる「疎外」論 2  2021.05.30 藤川一久

2 エコロジストの無力性

 『人新世の「資本論」』前書きより

 斎藤は言う。「産業革命以降、人間は石炭や石油などの化石燃料を大量に使用し、膨大な二酸化炭素を排出するようになった。産業革命以前には280ppmであった大気中の二酸化炭素濃度が、ついに2016年には、南極でも400ppmを超えてしまった。これは400万年ぶりのことだという。そして、その値は、今この瞬間も増え続けている。

 400万年前の『鮮新世』の平均気温は現在よりも2~3℃高く、南極やグリーンランドの氷床は融解しており、海面は最低でも6m高かったという」、と。

 そのとおりであろう。だが、「産業革命からの気温上昇を2℃より低く抑えるために、二酸化炭素などの排出を2050年までに実質ゼロにする」ことで事足り得るのだろうか? 今すぐゼロにしても、大気中には400万年前と同じ濃度のCO2があるのではないか? どうして「排出削減」ではなく、産業革命の頃の「濃度」にまで大気中のCO2そのものの削減することを掲げないのか?

 「カーボンニュートラル」で解決するかのように主張するIPCCや「パリ協定」は、欺瞞ではないのか。

  斎藤は、気候危機を唱えるCO2地球温暖化論者の主張を無批判的にとらえているとはいえ、「人類が築いてきた文明が、存続の危機に直面しているのは間違いない」、「気候危機の原因の鍵を握るのが、資本主義にほかならない」、と言う。そして「脱成長のコミュニズム」を対置する。それに従えば、産業革命以前まで「経済を脱成長」させなければならないと言うのであろうか? しかし、それでも6mもの海面上昇は抑えられないのではないのか。 斎藤は本当にそんなことを考えているのか?  

 彼は、気候危機=C02地球温暖化=自然破壊=資本主義の成長主義、と単純に思考している。それゆえ、経済の成長主義を止めれば良いというのである。現代の気候危機は「脱成長のコミュニズム」で本当に解決するのだろうか?

 さらに、斎藤は「資本主義が極めて深刻な環境危機を引き起こす」のは「単に生産力が飛躍的に増大したという理由だけではなく、むしろ人間と自然の物質代謝を媒介する労働が質的に変容していることが重要なのだ」というのである。にもかかわらず斎藤は、「脱成長のコミュニズム」で良しとする。資本制的に疎外された「労働過程」の変革を、だから資本主義社会を根底から変革することを対置しないのは、どういうことだ!?

 資本主義そして、スターリン主義もまた、自然を破壊し続けてきた。このことも単なる「経済成長主義」で割り切れるものではない。

 確かに資本主義は価値を増殖するために自然を破壊してきた。スターリン主義は「生産・分配・交換・消費」に関する理論的誤謬や、自然科学の非上部構造論や生産諸力の無階級性論という誤謬に満ちた諸理論で基礎づけられた「計画経済」建設を行ない自然を破壊してきた。さらには、帝国主義スターリン主義が相互に政治的、軍事的に対抗する只中で人類と自然とを危機に陥れてきた。存在論的にはそう言える。

 そういう意味では、人間が人間生活を豊かにしようと築いてきた文明と、そして人間とが存続の危機に直面している。このパラドックスを解く「鍵を握るのが、資本主義にほかならない」、と言える。

 しかし、気候危機を煽りつつ、脱炭素の「クリーンエネルギー」社会を目指す米・中・欧の権力者や資本家どもに対して、自分のエコロジー的な思想で粉飾した「脱成長のコミュニズム」を対置することは、彼らの支配階級の大罪に対してイデオロギー的に武装解除するもでしかない。なぜなら、斎藤の「脱成長のコミュニズム」はマルクス主義の破壊の上に主張されているからである。

 2021.05.30 藤川一久