黒田寛一の哲学をわがものに6ー3
「「対象化=物化」というのが、すでに黒田寛一『資本論以後百年』にあった」という文書が北井ブログに6月27日付で載った
どうしてばかげたことを書くのか、と思いつつ、以下にその批判を書く。
まず、全文を紹介する。
【わが仲間が、1968年に出版された、黒田寛一『資本論以後百年』に「対象化=物化」というのがある、と教えてくれた。
そうすると、黒田寛一は最初からこういう把握だった、ということになる。私はおどろいた。
そこには、スターリン主義者への批判として、こう書かれてあった。
「……商品に対象化=物化されている労働をば商品を対象化=生産する労働にすりかえて解釈している以上、それは完全に空語でしかないのである。」(黒田寛一『資本論以後百年』こぶし書房、1968年刊、70頁)
私は、出版された時点でこの本を読んだときに、この部分に何も感じずに読みすすんだのだ、と思われる。
私は、黒田その人に学んで、資本制的物化にかんしては、人と人との関係が物と物との関係としてあらわれる、人格の物化と物の人格化というように把握していた。「対象化=物化」というように把握したことはなかった。(筆者:当たり前だ!!)
われわれは、「商品に対象化されている労働」「対象化された労働」というようにいうのであるが、「対象化」という概念にかんしては、これを、労働する主体を主語にしていうときには、「労働者はみずからの労働力を対象化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に対象化する」というように表現するわけである。この「対象化」いう語を「物化」という語におきかえて、「労働者はみずからの労働力を物化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に物化する」というようにいうことはできない。そんなふうにいえば、意味不明である。「対象化」と「物化」とは異なる概念なのである。(筆者:これまた当たり前だ!!)
もしも、「物質化」という言語体をつかい、「労働者はみずからの労働力を物質化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に物質化する」というように表現するのであるならば、これはいえる。この「物質化」は「対象化」と同じ意味になる。
労働者がみずからの労働力を木材に対象化して机をつくったからといって、これは、労働が机に物化した、(筆者:当たり前、この労働者は資本の直接的生産過程にいないのか?)ということではない。生産物(筆者:どのような?)が商品(筆者:商品それ自体が生産物の物化されたものではないのか?)として交換されるという諸条件のもとでは、この机が頭で立って踊りだす、という転倒現象が問題なのである。
それにもかかわらず、黒田寛一が最初から「対象化=物化」と把握した、ということは一体どういうことなのであろうか。】
どうしたら、松代=北井のように黒田が「対象化=物化」と書いている、といえるのだろうか?
「労働者はみずからの労働力を対象化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に対象化する」とは正であろう。その生産物は「価値、使用価値」という規定はできない。人間労働一般のレベルの話だ。
「商品に対象化されている労働」、(商品に)「対象化された労働」とは反であり、黒田は「他人のための使用価値」「同時に価値であるところの他人のための使用価値」など、つまり商品の生産について論じているのだ。この反のレベルの商品の実体の規定に関して論じているのである。
この反に対し正から解釈し、しかも「対象化=物化されている」という表現を「対象化する」「物化する」と言い換える操作を行い、「対象化」と同義語として「物化」を黒田は把握しているのだという藁人形をでっちあげ批判したつもりになっている。松代=北井は、「疎外論」を論じていた時と同じように、理論のレベル、理論の領域を無視し、自分の主張の土俵で批判対象の藁人形をでっちあげる、このようなことを行うことは、この男の専売特許ではある。
反についてもう少しかみ砕いてわかりやすく説明してみる。
始元的商品とは、「直接的には労働力商品であり、媒介的には同時に、この労働力商品の担い手である賃労働者=プロレタリアの生産した「資本としての生産物」たる資本制商品である。この意味において商品はすでに物化されたものであるのだ。このように黒田が始元的商品を規定していることを、松代=北井は忘れたのだろうか?
したがって、価値交換関係を論ずる際にも商品それ自体がすでに物化されたプロレタリア=労働力商品である、ということが前提となっている。
このような黒田は、スターリニスト、宇野弘蔵、対馬忠行らの批判を通して次のような1、2、3のようなことを述べている。スターリニストはともかく、宇野弘蔵、対馬忠行などが、マルクスの論述を、なぜ「生きた労働」であるかのように解釈してしまうのか、という検討を黒田が行っているのである。宇野弘蔵、対馬忠行らの固有な限界のみならず、マルクス『資本論』において正と反(反⇔正′)の中の正′の区別があいまいな点も黒田は指摘している。
この労働力商品、並びに「資本としての生産物たる」資本制商品の実体は
1(「対象化する労働」ではなく)「対象化された労働」である。
2(「流動状態にある労働」ではなく)「凝固した労働」である。
3(「生きた労働」「生産する労働」ではなく)「資本制的に物化された労働」である。
それぞれ批判対象との関係で、アングルの違いがあるということであろう。これらが、価値=交換関係を媒介として「商品にあらわされる労働の二重性」として、マルクスは「抽象的人間労働」「具体的有用労働」という規定をしていると黒田はとらえている。
つまり、商品の価値の実体に対象化され凝固され物化されているものは、プロレタリア=賃労働者の資本制的に疎外された労働であるのであるが、黒田は「対象化され凝固され物化された労働」と表現し、「物化された労働」をあえて加えて、論じているのである。
我々において重要なことは、物化された資本制生産関係の普遍的運動法則を解明したのが『資本論』である、ということなのである。同時にその「裏側では労働力商品にまで物化されているプロレタリアの自己内反省としての意義を持つものとして」『資本論』は展開されているととらえた梯明秀から黒田が学び、主体化したからこそ言えることである。さらに、反スターリン的な思想を確立するための基本的なものを提起しているという宇野弘蔵。「商品形態が資本主義社会の基本的な規定をなすということは、労働力が商品化することによって、生産過程自身が商品形態を通して実現されるということにある」という彼の主張の画期的な意義、そして価値法則と経済原則とを峻別した意義を受けとめ、その限界を批判検討してきたのが黒田なのである。(この宇野弘蔵の主張は「人間生活の社会的生産」を正とし、資本制的に物化され、疎外された生産過程、商品の生産を反として受け止めることができる。)
この宇野弘蔵の「労働力商品の経済哲学」も、プロレタリア的認識の進化にかかわる円環と学問的体系そのものの円環という梯明秀の「二重の円環構造」も、ともにマルクス『資本論』において直接的に論じられてはいないところのものなのであり。梯明秀の「経済哲学」、宇野弘蔵の「労働力商品の経済哲学」において明らかにされたものなのである。それは、『資本論』のたんなる経済学的解釈の地平を大きく超えているものなのである。
我々の認識=思惟活動は常に科学することと同時に哲学することであるということを、を肝に銘じなければならないゆえんである。「始元的商品とその内的矛盾の諸規定から価値形態(商品の内的矛盾の外的対立における運動)へ、さらに商品から分離した貨幣へ、またその資本への転化、生産過程を通じての実体的資本の自己運動、資本の流通過程を媒介とする再生産過程、これらを基礎とした資本制生産の総過程――というように展開されていく商品の自己運動の学問的体系が『資本論』の体系」である、のは言うまでもない。この『資本論』を我々は、経済学=哲学として読み主体化し「労働力商品として物化された自己の現実性と必然性」をつかみとることが何よりも肝要なのである。
追記:「また黒田寛一の経済学に、わけのわからないものを発見した――「労働力商品体」??」という松代=北井の文章を見た。
これまた、彼の批判は支離滅裂を絵に描いた様なものである。資本の直接的生産過程での資本による「労働力商品の使用価値の消費」の問題を黒田は論じているのである。 そこでは直接的生産過程の前提としての労働力市場での「労働力商品の価値」の購買と販売についてはさしあたり捨象している。そして、この「資本の直接的生産過程」での「労働力商品の使用価値」を賃労働者の「労働力としての機能」と黒田はとらえている、ということである。使用価値の側から商品形態という意味として、黒田は「商品体(ボディ)」と表現しているだけである。
素直に読めばよい事柄である。
2025.06.28